〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み

 リア充という言葉はいつどこで生まれたんだろう。ネットのスラングがほとんどそうであるように、この言葉もはっきりした出自はわからない。

 いうまでもなく「リアルが充実しているひと」を指す言葉なのだが、最近は単に「恋人がいるひと」を指すように変化しているらしい。そのほか、友達がたくさんいること、バリバリ仕事をしていることなどもリア充の条件であるらしい。

 とにかくリア充という言葉はルサンチマンと裏腹である。「リア充爆発しろ!」といういい方があるように、リア充という生き方はとにかく良いもの、素晴らしく、またうらやましいものであるという前提があるようだ。

 しかし、ほんとうにそうだろうか。そもそも人生とはそんなに「充実」していなければならないものなのだろうか。ひねくれているかもしれないが、ぼくはそこに疑問を感じずにはいられない。

 リア充の条件、仕事、恋愛、友人などの関係で充実していることが悪いことだとはぼくも思わない。たくさんの仕事をバリバリこなし、愛する恋人(ないしパートナー)を持ち、たくさんの友人と付き合う。それはたしかに良いことではあるのだろう。

 だが、そういう生活は一方ではとても疲れるものなのではないだろうか。べつだん、だれもがリア充を目ざす必要はないのでは? こう書くと、すぐさま反論が寄せられそうだ。仕事がなければ食っていけないし、恋人や友人がいなければ寂しいではないか。やはりリア充のほうが幸せに決まっている、と。

 しかしそれは極論というものだ。たしかにまったく仕事をしなければ干上がってしまうし、まったく人間関係がなければ寂しいだろう。だが、だからといって極度に人生を充実させなければ生きていけないというものでもない。

 ぼくがいいたいのは、必ずしも人生を充実させる必要はない、程々でいいのではないかということだ。仕事もそこそこでいいし、友達も少しいればいい。恋人はいたほうがいいかもしれないが、いなくてもさほど問題がない。そういう程度でことさら問題はないのではないか。そう思いませんか?

 リア充が幸せそうに見えるのは隣の芝生は青く見えるだけだということも考えられる。非リア充の生活は、何といっても楽だ。疲れない。最近、ニートブロガーとして有名なPhaさんの『ニートの歩き方』を再読しているのだが、かれの生き方もそういう「楽で疲れない」ことを第一に考えているように思える。

 そういうライフスタイルはいかにも退嬰的に思えるかもしれないが、そもそも全力で生きなければならない理由などないのだ。力を抜いて、ゆっくり生きていってもいい。人生というマラソンを、全力疾走で走らなければならない理由などない。ときには歩いてもいいし、ちょっと小走りという程度でもいいのだ。いずれにしろ目的地などないのだから。