ドラえもん (1) (てんとう虫コミックス)

 今日も今日とて読書する。乙武洋匡さんの本を読んでいたら、こんな一節に出逢った。

 僕は、のび太君のような子どもに光を当ててやれる教師になりたいと思っている。
 ふだんは、典型的なイジメられっ子。だが、「こいつは勉強もできないし、運動も苦手だけれど、あやとりだけは抜群にうまいんだ!」と、友人であるジャイアンやスネ夫からも一目置かれるようになれば、どんなに生き生きとした社会になるだろう。もちろん、そんなことになれば、この国民的漫画は物語として成立しなくなってしまうのだが……。
 それが理想論であることはわかっている。現実的に、あやとりで日本一に輝いたところでメシが食っていけるわけでもないし、「のび太君と優等生の出木杉君、どちらを自分の息子にする?」と聞けば、一〇人が一〇人、「出木杉君」と答えるだろう。

 いいたいことはわかる。しかし、「あやとりで日本一に輝いたところでメシが食っていけるわけでもない」という決め付けが、わずかにひっかからないこともない。ほんとうに「あやとり日本一」で「メシが食ってい」くことは不可能なのだろうか。何もいい切ることはないのではないか。そう思うのである。

 たしかにかつてであったなら考えるまでもなく不可能だといい切って良かったかもしれない。しかし、いまや時代は変わった。インターネットでの個人による情報発信が常識化したいま、お金を得る手段は遥かに多様化している。いまなら、あるいはなんとかなるのではないか。

 もちろん「あやとりでメシを食っていく」ことがそう簡単であろうはずはない。しかし、初めから無理に決まっているとあきらめる必要もないように思う。どうにかならないかと考えてみるくらいしてもいいのではないか。たとえばニコニコ動画に芸術的なあやとりの動画をアップして話題になるといったことになれば、金銭収入への道が開けることがないとはいえない。

 ここで問題になっているのは「才能のマネタイズ(金銭化)」という問題である。のび太には日本でも有数の才能がある。しかし、いまのところ、それをお金に換える手段はない。そこで「これはお金にはならないものなんだ」とあきらめてしまうのではなく、「どうにかしてお金にする手段はないだろうか」と考えてみること。