きのうの続きです。前回は「いま、脚本術や物語論の本を読んでいる。そこから考えると面白い物語とは人物や状況が変わりつづづけるものである」と話しました。

 まあ、世の中には『サザエさん』みたいなほとんど人物も状況も変わらない例もあるわけですが、ぼくは『サザエさん』がふつうの意味で「とても面白い物語」だとは思わないので、特に例外というほどには考えません。

 そして、「その変わり方にはポジティヴなものとネガティヴなものがある」という話もしましたね。「主人公が闇の奥にまで堕ちていく」といったダーティーでアダルトな物語は、一見すると一般的な「王道」に対する「邪道」であるようにも思えますが、決してそうではありません。

 それは結局、変わっていくベクトルが違っているだけのことであって、「変化を描く」ということには何の違いもないのです。いわば「逆方向の成長物語」ということもできるかもしれません。

 そして、成長物語が成長し切って完全に立派な人物になってしまったらもう面白くないのと同じように、堕落物語もその人物が完全に堕落し切って悪人そのものになってしまったらもう読者の興味は持続しません。

 あくまで「そこに至る変化」にこそ読者の興味をそそるものがあるわけです。

 その最も典型的な例は『スター・ウォーズ』のアナキン・スカイウォーカーことダース・ベイダーだと語りましたが、たとえば『グイン・サーガ』で「狂王」と呼ばれるまでに堕ちていくイシュトヴァーンなどもまったく同じパターンといえるでしょう。

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 『グイン・サーガ』が巧いのは、より完璧な人物へ成長していくグインと、その反対に魂が堕ちていくイシュトヴァーンを並行して描いているところですね。いずれか片方だけだったら長い物語はもたなかったと思います。

 そしてイシュトヴァーンは物語を通してしだいに兇悪に、残酷になっていくわけですが、最後まで無邪気な少年の心を失いません。純粋な悪人に堕ちそうでいて堕ちないわけで、ここら辺もまあ、さすがに巧いところだと思います。

 「読者は変化しつづける人物や状況にだけ興味を抱く」、不変のものはスルーしてしまうという原則が守られているのです。まあ、それにしては変化のしかたがいささかならず冗長ではあるのですが……。

 『クリエイティヴ脚本術』という、一見するとまともな脚本術のようなタイトルでありながらその実、ユング心理学を応用したかなり非実践的な方法論ばかり書いてある奇妙な本があるのですが、そのなかではこの「アンチヒーローの魂の堕落」は、人類の脳の動物的な部分を象徴しているのだということになっています。