それでも話し始めよう アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション

  自分が伝えたいことをどう記し、どう伝えるか、これはブログに限らず、文章をものす際の最大の課題点である。自分の頭のなかにぼんやりと浮かんでいるイメージを、いかにして言葉という形に練り上がるべきか、いつも悩むし、ほとんどの場合、成功しない。

 それはもちろんぼくの言語表現力が未熟なせいだが、言葉というものそのものに根本的な限界があるのだということも時に感じる。伝えたいものは非言語的な概念だったりするわけだから、それを言語のレベルに落とすとどうしてもニュアンスが変わってしまうわけだ。

 もちろん、こんなことは言い訳だ。言葉の限界をよく承知した上で可能なかぎりそれをうまく使っている達人たちはいくらでもいる。ぼくもまたそういう人々からたくさんのものを学んできた。つくづく先人たちは偉大だったと思う。ぼくもまた少しでもかれらを真似て言葉の限界が挑んで行きたいと考えている。

 ただ、そういう達人たちの文章ですら、完全にひとつの意味で受け取られることはない。やはり言葉はどうしようもなく不完全で、伝えたいものを伝え切ることは困難なのだ。そこで、リアルで対面するとき、ひとは言語以外の方法で意図を伝えようとする。

 たとえば表情によって、あるいは声色によって、さもなければボディ・ランゲージを使ってでも、自分が何を考えているのか知らせようとするのがリアルでのコミュニケーションである。

 逆にいえば、ぼくたちはリアルスペースでやり取りするとき、言葉以外のところから膨大な情報を得ている。そういった非言語的な情報を無意識に解釈することによって、複数の解釈可能性をもつ言葉の意味をひとつの解釈に絞り込んでいるわけだ。

 ネットで情報を発信し、また受信することのむずかしさは、この非言語的な情報がバッサリ切り取られているところにあるというのはよくいわれるところだ。

 もちろん、大切なのはロジックであってエモーションではない、表情や声色やボディランゲージに頼っている時点で情報の発信者ないし受信者として未熟なのだ、という考え方もあるだろう。一理ある。

 ただ、ネットの場合、発信しているのも受信しているのも言葉を扱うプロではない。どこにでもいるごく普通の人々が、ふだんリアルでコミュニケーションするのと同じ感覚でやり取りしているわけである。そこにふだん利用している膨大な情報が欠けているという自覚はない。

 だから、ネットではしばしば大きなトラブルが起こる。とんでもない喧嘩になったりする。そして、いざリアルで顔を合わせてみると、そのトラブルはあっさり解決してしまったりするのである。

 それでは、ぼくたちは何に注意して発信し、受信すればいいのだろう。たぶん最も良いのは、一回の発信、受信で満足することなく、やり取りを重ねて行くことだろう。たとえばある記事をブログに発表した後、その反響を受け止めて新しい記事を書くといったことは大切だ。

 ある情報を発信してそこで終わりとするのではなく、その後もコミュニケーションを重ねて情報を洗練させていくこと。また、受信した側も自分の解釈を常に懐疑しつづけ、新しい解釈の可能性をさぐりつづけること。そういうことができれば、インターネットの議論はいっきに建設的なものになっていくに違いない。