『南の島に雪が降る』を読むと「娯楽」というものの「本当の意味」がよくわかります。いまの世の中はとにかくエンターテインメントが溢れかえっていて、そのなかで「選んでもらう」ためにどの作品もどのタレントもありったけの大声、金切り声をはりあげて「私を見て、私を選んで」と絶叫している、ような印象さえありますが、「一年に一回しかまわってこない旅芝居」が農民たちの最大の楽しみだった時代には、農婦は辛い草むしりをしながらいつしか覚えてしまった義太夫を口ずさみ、「あと何日で旅芝居が見られる」というのだけを生き甲斐にするようなころが本当にあったのです。テレビが朝から晩までなんでも垂れ流しているようになる以前には、ありあまってしまった夜の時間は、話でもするか、本でも読むか、自分自身の趣味を求めるしかなかった。そのころには、読んだ本が面白いかどうか、というのはとても重大なことだったような気がします。「娯楽」というのは、ただのありあまる、「自分を選んでくれ」と叫んでいる無数の選択肢からつまらなそうに一つ取り上げてはまた放り出して次を気まぐれにつつく、ということではなしに、「一年間その日のくるのを楽しみに待っている」ほど重大なものであったはずです。
弱いなら弱いままで。
これはたとえばこの前の前の記事とも繋がる話なのだが、最近、読むべき本、見るべき作品が急速に増えつづけていてとても追い切れない状況になっている。
ぼくはまだ昔を語るには少々若すぎる若輩の身に過ぎないが、それでも昔はもう少し追いかけられた気がする。たとえばテレビアニメにしても、以前は週に何十本と放送されているという状況ではなかった。
もちろん、当時にしても読むべき本、見るべき映画、楽しむべき漫画などは枚挙にいとまがなく、とてもそのすべてを味わいつくすことができなかったことに変わりはない。
しかし、それにしても今日のこの娯楽の豊穣はどうだろう。あまりに膨大な量の作品が(半分は無料で、のこりの半分はごく安い価格で)流通している。ぼくたちは空前の娯楽大量消費時代を生きているのだ。
こういう状況については、亡くなった評論家の中島梓(作家の栗本薫の別名)がエッセイ集『ガン病棟のピーターラビット』のなかで、南方前線での演劇模様を描いた『南の島に雪が降る』という本を取り上げつつ、批判的に語っている。
つまり中島は、現代社会とはあまりに豊かであるために必然的に貧しくなってしまった時代なのだ、といおうとしているように思える。
一理ある。「一年間その日のくるのを楽しみに待っている」農婦が、じっさいにその劇を見たときに感じる歓び、感激、それはいまのぼくたちには味わいようもないものだろう。
ぼくたちは無数に生まれては消えていく物語をつまみ食いしながら日々を過ごすことに慣れきっている。そのために一回性の感動は失われ、たしかにかつてはみずみずしかったはずの感性は麻痺し、日々に退屈するようになってきているということはできるだろう。ぼくたちが当然のものとして享受している未曾有の「豊かさ」は、その実、一回一回の体験の「貧しさ」と裏腹なのだ。
しかし、そうはいっても考えてみればこれはどうしようもないことである。いまさら貧しい時代に戻り、すべての娯楽を捨て「「あと何日で旅芝居が見られる」というのだけを生き甲斐にする」時代に戻ることができようはずもない。
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コメント
コメントを書く今まで、それが当たり前だと思って生きてきたけど、改めて考えてみると僕たちはこの時代、この国に生まれてきたことで本当に娯楽などの色々なものに満ち溢れた世界にいるんだなと思い知らされます。