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第六駅「カストル――ひとでなしとひとと」
1.乙一とスタージョン。
その昔、作家シモーヌ・ド・ボーヴォワールは喝破した。ひとは女に生まれるのではない、女になるのだ、と。そこで、わたしも先人に倣っていいたい。ひとは人間に生まれるのではなく人間になるのだ、しかしときに人間になりそこねるものもいる、と。
ひととしてのあたりまえの道徳や倫理、あるいは常識を身につけそこねたその者を、人々は、憎悪と軽蔑を込め、こう呼ぶ。「ひとでなし」と。
本書折り返しにあたるこの第六駅では、そんな「ひとでなし」たちの物語を追いかけてゆきたい。戦場感覚と「ひとでなし」は無縁ではない。なぜなら、ひととして生まれながらそこに違和を覚えずにいられないひとでなしたちにとってこそ、生きることは過酷であるはずだからだ。
ここでいう「ひとでなし」とは、必ずしも何かしらの大罪を犯した人間を指すわけではない。むしろ、「ひと」であることに違和を感じ、この世界に「ひと」として生きていることに居心地の悪さを覚えるような人々を指して、わたしは「ひとでなし」といいたい。
このように「ひとでなし」を定義してみると、すぐさま思い浮かぶ作家がふたりある。乙一とシオドア・スタージョンである。このふたりの作風はかけ離れているが、それでいて奇妙に似かよっているところもある。その「奇妙な味」としか形容しようがない不思議な雰囲気。
乙一は現代を代表する作家のひとりである。若干17歳にして異色作『夏と花火とわたしの死体』を上梓してデビュー。その後も「A MASKED BALL」、「平面いぬ。」、「しあわせは子猫のかたち」、『暗黒童話』、『GOTH』などの傑作、名作を次々と発表し注目を集める。
特に『GOTH』はミステリの新境地として各方面から絶賛を受けている。寡作ではあるが、その少ない作品の品質はきわめて高く、いまもファンに新作を待ち望まれている。別名義での作品もあるようだが、ここではとりあえず乙一名義の作品に限って論じることにしよう。
乙一の作品は、その大半が社会的逸脱者を主人公としている。端的にいえば、大半の主人公が何かしらの意味で「ダメ人間」である。その逸脱は『GOTH』のように人格的なものであることもあるし、『死にぞこないの青』のように状況的なものであることもある。
いずれにしろ、乙一の主人公はこの世界に適応していない。かれらはこの世界に違和を感じつつ、ときに自分を責め、ときに世界を怨み、生きている。『しあわせは子猫のかたち』や『傷』のように、聖なる祝福を受け、自分の存在の価値を見つけ、生きてゆくことを選ぶ場合もあるが、より酷烈なサバイバルがひたすらに続いてゆく物語というかたちを採ることもある。乙一の作品にもまた、紛れもない戦場感覚を見て取ることができる。
乙一の作品の特色は、「ひとでなし」の若者たちに注ぐ視線がきわめてあたたかいということだ。「しあわせは子猫のかたち」では、主人公の青年は、周囲とうまくコミュニケーションが取れない自分に絶望し、ひとり孤独に死んでゆくことを切望している。
しかし、そんなかれのまえにひとりの幽霊があらわれる。もっとも、「彼女」はかれの前に姿を表すわけですらない。テレビのリモコンをいじったり、わずかな文章を書きのこしたり、ささやかないたずらによってその存在がかすかに感じ取れるだけだ。
しかし、その存在はしだいにかれの孤独を癒してゆく。孤独なひととひととのあいだの、超微弱コミュニケーション。
「しあわせは子猫のかたち」はわたしがいままで読んだ短編のなかでも指折りといえる傑作だが、その秘密は乙一が「ひとでなし」に対して示す共感にある。そして、その逸脱者に対するなんともいえぬ優しさはスタージョンの作品にも通底している。
シオドア・スタージョンは20世紀アメリカ文学を代表する天才短編作家である。世間的には、その作品以上に「何事も90%はクズなのだ」という、あの有名なスタージョンの法則によってしられているかもしれない。しかし、その作品はまさに珠玉、自分自身の法則を裏切って「90%がクズ」とはとてもいえない。
あるいは未訳作品には駄作が混じっているのかもしれないが、それにしてもその頂点の高さは驚くべきものがある。そしてスタージョンが巧緻をきわめる魔術的レトリックを用いて描きだしたのは、切ない愛と孤独の物語であった。
かれの傑作は数しれない。最も有名なのは長編『人間以上』だろう。しかし、それ以上に綺羅星のごとき短編群が素晴らしい。そのなかでも「輝く断片」はかれの最高傑作といえる珠玉の傑作である。
主人公はある清掃夫。知能は低く、社会から必要とされていないという疎外感とともに生きている。かれはあるとき、ひとりの女性が倒れているところを見つけ、家に連れて帰り、独自のやり方で「手術」する。かれにはどうしても彼女に必要とされているという実感が必要だったのだ。その、だれかに必要とされているという感覚こそが、かれの人生の「輝く断片」であった。
しかし、それはあるとき、かれの手のなかからするりと抜けだしていってしまう。ここにあるものは、人生の意味を見つけたにもかかわらず、それを手にいれることができなかった男の、その孤独、その絶望だ。
スタージョンもまた、「ひとでなし」の作家であった。かれはどうしてもこの社会に適応することができない人々を好んで主人公にした。その作品は、生前、親交があったというハインラインの作風とは好対照をなす。
政治家をめざしたこともあるというハインラインの作風は、必然、保守的であり、その主人公は行動的かつ自己中心的であった。いわば、それは「ひと」の領域の物語だったのである。
2.江戸川乱歩と中井英夫。
このような「ひとでなし」の感覚を持った作家は、むろん、過去にも見つかる。高原英理は著書『ゴシックハート』のなかで、「人外(にんがい)」の感覚をもった作家として、ふたりの人物をあげている。江戸川乱歩と中井英夫である。
「人外」の感覚とは何か。
「人外である自己」を感じる、とは決して他者に誇示できることではなく、ただひたすら何かを欠落させた「人交わりのならない身」(これも人外の心を多く描いた、三島由紀夫による『仮面の告白』から)である自己をうとみ、一方でそれにもかかわらず自分も人間の限界内にしかないことを恥じ、絶望する心の動きである。
まずあるのは自分が十全な人間になれないことへの無念の自覚だ。だが同時に、ただ人間であるだけでは満足できず人間以上の何かを求めてしまう自己のどうしようもなさへの嘆きをもそこに見たいと思う。後の方の自覚からは人間的ななまぬるい情感と感情吐露を厭い、鉱物のような永遠性を持つものに憧れるといったドイツ・ロマン派的想像が生まれてゆく。
この著述を読むと、スタージョンの代表作のタイトルが『人間以上』であり、また『夢見る宝石』という鉱物生命体を描いた長編もあったことを想起せずにはいられない。ゴシックの作家というにはスタージョンはあまりに優しすぎただろうが、しかし、そこには確実に通底するものがあるように思われる。
さて、乱歩である。大乱歩のことをしらないひとはいないだろう。日本ミステリの父にして、名探偵明智小五郎の生みの親、その世間的知名度はきわめて高いが、その実、子どもにはちょっと読ませられないような妖美幻怪きわまる作品を生み出しつづけたひとでもあった。
乱歩は生涯、「理知の小説」としての本格ミステリにこだわった。しかし、それでいて、じっさいにかれが生み出し続けたのは、世にもふしぎな幻燈の夢、都市の闇にひそむ猟奇事件といったものであり、生涯、ついに会心といえる本格の一作を生み出すことはなかった。
乱歩には紛れもなく物語作家としての才があり、それは『少年探偵団』シリーズを生み出した。が、わたしたちがただ乱歩と呼ぶときイメージする、妖しい暗がりの住人、許されざる快楽の追求者として本領は、その短編にある。そのまま「ひとでなしの恋」と題する作品もあるが、最もしられているものは、またその世評も高い作品は、あの異形の大傑作「芋虫」ではないだろうか。
これは、戦争によって両手足を失い、一匹の「芋虫」のような姿になり果てた男と、かれをサディスティックにさいなみ続ける妻との地獄の日々を描いた、まさに大乱歩ここにあり、ともいえる傑作だ。いつ果てるともしれぬ恍惚と苦痛の日々――そこで、男と女とは、たしかに「ひと」のありえるべき倫理を踏み外している。
乱歩はこの作品で左翼から賞賛され、右翼から睨まれたという。しかし、その異形の精神の望むところは、べつだん、戦争批判ではなかった。
ただ、かれは人間の極限状況における地獄絵図を描きたかっただけなのだ。そのような意味で、乱歩は紛れもなく「ひとでなし」の作家であった。そうでなくて、どうして「芋虫」のような作品を書けるだろう?
中井英夫は、大乱歩ほどには有名ではないかもしれないが、いまなお、推理小説や幻想文学に親しむものにとっては神々の一柱に数えられている。
その代表作は『虚無への供物』に尽きるだろう。また、『とらんぷ譚』という短編の傑作群ものこしている。中井はその素晴らしい作品の数々にもかかわらず、あるいはそうであるからこそ、この世界に激しい拒絶感をおぼえて生きたひとであった。
かれはこの世界は流刑地であるといってはばからなかった。ほんとうにあるべき「真世界」を離れ、なぜともしれず誤って生まれてしまった流刑の地。そこで生きていかなければならないという絶望。
それは、単にこの世は仮の宿であるといった消極的なものではない。理想的な「真世界」は他にあり、自分は本来、そこにいるべき人間なのに、なぜとはしらず、この汚穢な地球に流刑にされているという意識なのである。
それはたしかに想像力の強い少年少女ならしばしば抱くたぐいの空想ではあるだろう。しかし、乱歩にせよ、中井英夫にせよ、生涯、その想いを抱きつづけたのである。
また、天才SF作家ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの作品にも、この「流刑意識」を見て取ることができる。たとえば、「ビームしておくれ、ふるさとへ」は、この世界に違和を感じつづけたある人物が、あるべき「真世界」に帰るという筋立てであった。
中井やティプトリーのような小説家として天才ともいえる才能をもつ人物は、それゆえに「ひとでなし」であらざるをえないのかもしれない。それはかれらにとってどんなに苦痛なことであっただろう。
凡愚の身はただ想像することができるだけである。
3.有川浩。
有川浩について話そう。
有川は2004年、SF長編小説『塩の街』で電撃大賞を受賞し、デビュー。その後、『空の中』、『海の底』といった作品を発表しつづける。そして、全6冊に及ぶ長編『図書館戦争』シリーズがベストセラーになりブレイク。一躍、人気作家の地位に躍り出る。
『図書館戦争』は漫画化及びアニメ化、『阪急電車』は映画化、『フリーター、家を買う。』はドラマ化と、メディアミックスもかずしれず、いま最も注目をあびている作家のひとりといってもいいだろう。
有川の作品のひとつの特色はハラスメントに対する怒りである。『塩の街』から一貫して、彼女の作品には性的なものを含めたハラスメントへの抗議が感じ取れる。それは自己の領域を侵すものへの烈しい怒りであった。
それは、もちろん、良い。しかし、わたしは有川の作品にほのかな違和感を抱く。有川の作品には、どこか自分と異なるものを排除する気配があるように思うのだ。
乙一やスタージョン、乱歩や中井英夫といった作家とは正反対のポジションにいる作家として、ここに有川浩の名前を挙げておきたい。
しかし、それにしても、そもそも「ひと」とは何なのだろう。それはむろん単に生物学的な定義のことではない。むしろ文学的、といいたいような意味での定義である。
「ひと」。わたしたちは自分がその定義に入るかどうかで悩み、あるいは他者を排撃する。そこにあるものは、「仲間」という概念である。わたしたちにとって「ひと」とは自分たちの「仲間」という意味なのだ。
だから、「仲間はずれ」の孤独を描く乙一や乱歩を読むとき、わたしは悲痛なほどの共感を覚える。一方、有川浩を読むとき、そこはかとない反感を覚える。有川は自分を人間の中心に据えることに躊躇をいだいていないように見える。そこにあるものは自己中心主義である。
人間らしさといい、ヒューマニズムというとき、その言葉はごく肯定的な意味合いでもって使われる。しかし、そこに差別や排斥の問題があることを忘れてはならない。
「ひと」より「ひとでなし」に共感する自分がある。わたしはそのことを、恥とは思わない。
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