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最近、どうも永野護『ファイブスター物語』やら冨樫義博『HUNTER×HUNTER』やら、同じ作家や作品の記事が続くなー。
まあ、べつに同じ作品について複数回取り上げてはならないなどという決まりはないのですが、どうもワンパターンに陥っているようで気分が良くない。なるべくバラエティに富んだ記事を書いていきたいものです。一応、記事の内容は毎回きちんと変えているつもりなのですが(あたりまえですね)。
まあ、べつに同じ作品について複数回取り上げてはならないなどという決まりはないのですが、どうもワンパターンに陥っているようで気分が良くない。なるべくバラエティに富んだ記事を書いていきたいものです。一応、記事の内容は毎回きちんと変えているつもりなのですが(あたりまえですね)。
そういうわけで今回も冨樫義博の記事。この作家の遅筆は有名で、何度となく掲載誌の『ジャンプ』に下描きの原稿を載せています。最近ではしばらく連載を続けたあとには何ヶ月か連載を休載することが習慣化していて、それに対する批判も少なくなってきているように思えます。圧倒的な作品のクオリティが読者心理をねじ伏せてしまったのです。
ほとんどだれもが「冨樫は特別」「あいつだけは仕方ない」と考え始めているということでしょう。最近では「冨樫仕事しろ」という言葉は軽いネタとして使われている気がします。ところで、ぼくは昔からこの「冨樫仕事しろ」といういい方には強烈な違和を感じてきました。
具体的にどこにどう違和感を覚えるかというとうまく説明できないのですが、つまり「冨樫はちゃんと仕事しているじゃん」と思ってしまうのです。なるほど、かれは一面だけを見れば「怠け者」であるかもしれません。基本的には毎週きちんと掲載することがあたりまえの週刊連載の現場にあって、一年のうち半分以上も作品を載せていないのですから、「仕事しろ」といわれて当然だという考え方はできます。
しかし、これは結局、「仕事」という行為の意味を「量」に見ている考え方です。一方で「質」を問うなら、冨樫さんは『ジャンプ』でも、というか日本の漫画界でも最高水準の「仕事」をしているわけです。
ほんとうに「量」だけを見て「質」を問わず「仕事しろ」ということが正しいのか。仮に正しいとして、それではぼくたちはかれに「仕事しろ」といえるほど働いているといえるのか。この問いを突き詰めていくと、そもそも「働く」「仕事をする」とはどういうことなのかという問題に直面せざるを得ません。
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