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いま、金城一紀の連作小説『映画篇』が漫画化されている。未完だが、この調子だと全四巻か五巻くらいにまとまりそうだ。小説版の『映画篇』を読み終えたのは昔のことで、だいぶ内容を忘れているが、それでも第一話「太陽がいっぱい」の印象は鮮明に残っている。手のつけようもなく腐乱した世界のなかでなお光り輝く「物語の力」を称揚した傑作エピソード。
この話のなかで主人公は語る。「クソみたいな現実が、押しつけてくる結末を、物語の力で変えてやるのだ。何でも、あきらめることなく。いずれ現実は、物語の力にひれ伏す。物語の中では、死者は当然のように蘇り、空を羽ばたくことさえできるのだ。」素晴らしい。ぼくもまた「クソみたいな現実」のなかで生きながら物語に救われたひとりである。この力強い宣言には心打たれる。
もちろん、物語になど何の力もないと考えるひともいるだろう。それはしょせん形なき空想であるに過ぎず、非情な現実をかけらも変えることはできないのだと。それはある意味で事実である。
「太陽がいっぱい」のなかでは、主人公の親友である龍一(リョンイル)はヤクザまがいの人生を送った挙句、最後には殺されてしまう。主人公は龍一がしあわせになった物語を描くが、それは結局、現実世界の龍一を何ら救いはしない。そういう意味では物語は無力だ。
しかし物語は死者そのひとは救えなくても、そのなかで死者を蘇らせることで、生きている人間を救う。おそらくは主人公自身、この物語を書くことで救われたに違いない。もし龍一が生きていたなら、物語はかれの人生を変えることができたかもしれない。物語には力がある。それは世界を変えることはできなくても、人間を変えることはできるのだ。
さて、この短い物語のなかで、忘れがたい一場面がある。いまでは幼い頃とは変わり果てた生き方を送っている龍一から、その頃からの友人である主人公に最後の電話がかかってくるところだ。
何年間も音信不通だった龍一は開口一番にいう。「映画、見に行かねえか?」。幼い頃から何度となく主人公を誘ってきた言葉。それは実は龍一からかれへのSOSだったことが後であきらかになる。しかし、主人公はその言葉をにべもなく拒んでしまう。
その結果、龍一は死ぬ。「クソみたいな現実」。主人公は選択肢を間違えてしまったのだ。おそらくこのとき、かれが龍一からのSOSを正しく受け止めていれば、べつの結末が待っていたかもしれない。
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