明日のマーチ

 石田衣良の小説は長編と短編を問わず大半を読んでいる。先日、読みさしだった『明日のマーチ』を読み進めていたら、ある衝撃的な展開に出くわした。以下、ネタバレあり。

 この小説はある日、突然に工場労働を解雇された四人の不正規雇用者の若者たちが数百キロ彼方の東京を目指し歩き始めるという筋立てである。

 四人の「抗議のための明日のマーチ」はしだいに人々の注目を集め、どんどん人数がふくれあがって行く。ところが、ある時、意外な事実があきらかになる。

 四人のリーダー格で「マスター」と呼ばれていた男が、昔、ある殺人事件にかかわっていたのだ。途端に「明日のマーチ」に非難が集まる。過去に殺人を犯した人間を、こんなふうにヒーローのように見なしていいのか、もっと責任を追求するべきではないのか、と。

 しかし、マスターの仲間である三人は、こんなとき都合の悪い人間を見捨てたら非正規雇用の自分たちを切り捨てる企業と同じだ、といってかれとともに後進を続けることを選ぶ。

 マスコミや人々の非難のなか、マーチは進んでゆき――と話は続く。この話を読んで、ぼくはつくづくと考えた。一度、殺人という罪を犯した人間を社会はどのように受け入れるべきなのだろうか、あるいはそもそも受け入れるべきではないのだろうか、と。

 この物語はマスターの側から描かれているから、かれが心から事件を反省し、申し訳なく思っていることが伝わってくるし、必然、かれに感情移入して読むことになる。

 しかし、当然ながら殺された人物の遺族にはその遺族なりの物語があり、あるいはそちらのほうこそほんとうに重要な物語かもしれないわけだ。

 物語の終盤では、マスターに家族を殺された一家がじっさいに登場する。マスターは被害者の家族に送金を続けていたのだ。ある被害者の父親はいう。

 「娘もわたしも、きみを頭のなかで何度殺したか、わからない。あの事件のあと妻は身体を壊すし、うちの家庭はめちゃくちゃになってしまった。だけどな、毎年命日には花を贈ってくれて、毎月慰謝料を送ってくれたのは、きみだけだった。民事の裁判で負けても、みんなゆくえをくらますか、自己破産するかで、きみ以外は誰も、自分の責任を果たそうとはしなかった」。

 そして、「わずかな額ですから」と続けるマスターに向かい、続ける。「いいや、きみは刑務所をでてから、送金を一度も欠かしたことはない。額ではなく、気もちがこもっていた。ありがとう」。

 かれらも、マスターの罪を赦したわけではない。だれに殺人の罪を赦すことができるだろう。しかし、その罪を赦せずなお、ひとを認めることはできる。

 綺麗ごととも思える展開かもしれない。しかし、この遺族の想いを思うとき、ひとの尊厳と、偉大さがわかると思うのだ。一方、当然ながら、決してマスターを赦そうとしない遺族も出て来る。