余命1年のスタリオン

 何か本を読んでいて、その本筋とは関係がない一節に啓発されることはよくあることです。先日、石田衣良の『余命1年のスタリオン』を読んでいたら、「不特定多数に好かれたいという病気」という表現が出てきて、ハッとさせられました。

 自分とは直接利害関係がない不特定多数の人間から好意を持たれたいという気もちは病だというのですね。一面ではその通りだと思います。自分とは永遠に関係ないひとにまで好かれたいと思うのは、健全とはいいがたい。もちろん、それが強いモチベーションになることもありえますが……。

 かつて、この手の「病気」の持ち主は作家とか芸能人を目ざすしかなかったでしょう。しかし、いまではインターネットがある。たとえばブロガーになって不特定多数の好意を集めたいと望むひとは少なくないと思います。

 とはいえ、不特定多数はかぎりなく気まぐれですから、その機嫌を気にしていると色々と問題が生じます。ブログを使うときは不特定多数を気にするより特定少数の読者と交流することを考えたほうが幸福かもしれません。

 一方で、それは良くないことだ、不特定多数の目に留まるところで書いたものは不特定多数にとって価値があるものであるべきだ、という考え方もあります。

 したがってブログに何か書くとき、不特定多数に向けて書くか特定少数に対して書くかというのは重要な問題になります。これもいままでは不特定多数に向けて書くべきだ、なぜなら不特定多数の目に留まるところに書いているのだから、という意見が支配的だったように思えます。

 不特定多数の意見を得たくないのだったらチラシの裏にでも書いていろ、という言葉がよく使われていました。しかし、それはほんとうでしょうか? 不特定多数の目に留まるところに書いたものは不特定多数の意見を気にしなければならないのでしょうか?

 ここらへんはいまでも議論があるところで、特定の正解があるわけではないでしょう。しかし、少なくとも不特定多数に奉仕するために書いているわけではない、ということは自覚しているべきではないでしょうか。

 そうでないと、不特定多数の乱高下する意見にモチベーションが左右されることになってしまう。結局のところ、不特定多数に好かれたいという病気はひとを幸せにはしないのです。

 ひとにとってほんとうに重要なのは家族や友人や恋人といった特定小数の人間です。不特定多数は、どんなに熱烈に支持しているように見えても、すぐに手のひらを返しますからね。