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その若者の名はディオ・ブランドー。悪のカリスマと称された男。恩がある貴族の一家ジョースター家に寄生し、当主ジョージを殺害、その罪が発覚するや、吸血鬼に転生して人類を支配しようと試みた邪悪の化身だ。
ジョースター家の血統を主人公とした『ジョジョの奇妙な冒険』は、一方でこのディオの物語でもあり、その凄絶な悪の美学の記録である。まさに悪のなかの悪。教育にも環境にも影響されない生まれながらの絶対悪。それがディオ。そのはずだった。
西尾維新『OVER HEAVEN』はこの吸血鬼ディオのイメージを大胆に塗り替えようとこころみる。結果としてできあがった作品はどうやら『ジョジョ』のファンには悪評紛々のようだ。
その前に発売された上遠野浩平『恥知らずのパープルヘイズ』と比べて批判するひともいる。だが、ぼくにはその評価が適切だとは思えない。たしかに『恥知らずのパープルヘイズ』は素晴らしいノベライズだった。
『ジョジョ』に対する繊細な気遣いと情熱なくしては書けない小説といってもいいだろう。創造神としての荒木飛呂彦を心からリスペクトし、その作品を愛していることが伝わってきた。しかし、いい変えるならただそれだけのことだ。
あまりに巨大な神の偉業に対し、こうべを垂れ、敬意を表するのみ。そんな態度であるとも受け取れる。ところが、西尾は不遜にもその「神」に対して冒涜とも受け取れる戦いを挑む。『OVER HEAVEN』一作は壮大な『ジョジョの奇妙な冒険』全編を再解釈し再構築しようという挑戦なのである。
そもそも『ジョジョ』という物語は、ジョナサンとディオの戦いを描く勧善懲悪の少年漫画として始まった。そこでは光と闇、善と悪、白と黒と対立する概念がはっきりと分かれていた。善はどこまでも高貴、高潔で、悪は果てしなく下衆。それが第一部の頃の『ジョジョ』の世界だったといえるだろう。
ところが『ジョジョ』はこの善悪対立の構図から逸脱しはじめる。たとえば第四部に登場した殺人鬼、吉良吉影を見てみよう。かれはたしかに一面では冷酷非情な悪漢であり、ディオにも劣らない生まれながらの悪党であるようにも思える。
しかし、一面ではかれは「穏やかな生活」を望むだけの小市民でもあった。第五部、第六部に至るとこの逆転の公図はいっそう鮮明になり、第六部の「ラスボス」であるプッチ神父にいたっては自分を「正義」と自認する人物である。
ここまで物語が進んでから全編を読み返すと、はたしてジョースター家こそ完全な正義といい切れるのかどうか、それすらも怪しくなってくる。ポルナレフはかつて自分は「正しいことの白」のなかにいると語ったが、ほんとうにそうだっただろうか?
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コメント
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俺もこの本を読んで「結構面白いな」と思っていたけど、色々な人の感想を見ると評判悪いですね。フィクションにこういうのもなんだけど、「絶対的な悪」なんて存在し得ないと思う。実際に、DIOは、悪人の側からはかなり支持されている。例えば、第3部の盲目のスタンド使いが「DIOみたいな人が必要なんだよ」みたいなことを言っていた。悪にとってのカリスマって要するに正義じゃんと思った。だから、別に西尾維新が荒木さんに挑戦したというほどでもないかな。なぜなら、十分に原作から読み取れる範囲だから。