スタジオジブリ 1000ピース 風立ちぬ 1000-265

 きょうでちょうどこのブロマガを始めて一年になります。長いようでやはり長い一年でした。

 記事内容が収入に直結する現場で、いままでになくスリリングな日々を楽しめたように思います。

 会員数が伸びず苦しんだこともありましたが、それもまあ良い思い出と云えないこともありません。

 初めは「1年で100人くらいに達すればいいかな」くらいに考えていたのですが、おかげさまでもう少し多い会員を獲得することができました。

 そういうわけで、一周年記念として、いつもより少し長い記事を書いてみたいと思います。

 「ゆるオタ残念教養講座」の1年を総括する記事と云ってもいいでしょう。

 過去の記事と同じことを繰りかえしている部分もありますが、良ければお読みください。

 さて――はたして読者の皆さんは何を考えてこのブロマガを読んでいるのでしょうか?

 正確なところはわかりませんが、思うに、「海燕の視点」を重視しているのではないでしょうか。

 つまり、世間のあらゆる作品や出来事が、海燕の目から見るとどう見えるのかという情報を得るために読んでいる方々がほとんどだと思うのです。

 同様に「物語三昧」は「ペトロニウスの視点」を展開しているし、「漫研」は「LDの視点」を提供しているのでしょう。

 それは客観的に見て正しいとか間違えているとかいうよりは、「かれの視点から見るとこういうふうに見える」ということを楽しむ性質のもので、そういう意味では研究とか学問とは云えないかと思います。

 この1年間、ぼくは努めて率直に「ぼくの目から見ると世界はこう見える」ということを伝えようとしてきました。

 それがすべて正しかったと云うつもりはありませんし、どこまで正確に伝わったのかもわかりません。

 ただ、ぼくは結局、ぼくの視点からしか物事を見ることができないので、これからも記事の内容が変わることはないと思います。

 この「海燕の視点」がどういう性質のものなのか、このブロマガを長期的に追いかけているひとはある程度わかるのではないかと思います。

 ただ、ぼくの思考のコアの部分はやはりどうしても伝わりにくい印象があります。

 それは、この地獄のような世界でひとはどう生きるべきなのか? どういうあり方が正しく、また美しいのか? そういう思索です。

 その、ぼくなりの答えはきわめて言葉にはしにくく、あえて乱暴に言葉にすれば正しく理解されない性質のものです。

 それはひとの魂の孤独と救済についての黙考なのです。

 栗本薫は代表作『真夜中の天使』のあとがきで、これはひとの孤独についての物語なのだ、と書いていますが、その意味での孤独こそぼくの人生のテーマです。

 ひとはなぜ孤独なのか? どうすれば孤独ではなくなるのか?

 それを解説するために『戦場感覚』という本一冊を費やしたのですが、さて、はたしてうまく伝わったかどうか。

 つまりはぼくにとってはSFもミステリもホラーもありません。少年漫画も少女漫画も関係ない。

 ぼくの心に琴線にふれるものがあるかどうあがすべてで、そういう意味では田中芳樹も栗本薫も宮崎駿も神山健治も永野護も奈須きのこも高河ゆんも、すべて同じ視点から、「ひとつのテーマをべつの角度から扱う作家」として見ています。

 それぞれの作家と作品はいかにもかけ離れているように見えるかもしれませんが、ぼくに云わせればそれは表面的な落差であるに過ぎません。

 本質的なところで、かれらすべてはこの世界とそれぞれの個性の摩擦のなかから作品を生み出しているのだと思っています。

 ぼくが好きな作家たちは、ぼくにとってはその表現形式を超えてすべて同じジャンルの作家なのです。

 まず、ぼくが『戦場感覚』で「少年の夢」と名づけたテーマがあります。

 これはつまり「男の子の物語」の根幹をなす思想であり、ヒーローになりたいという夢です。

 悪を倒し、世界を救いたい、可憐なヒロインを助け、自分だけの国を築きたい。そういうロマン。

 たとえば宮崎駿はこのロマンを追いかけつづけているという一点において、「永遠の少年」だと云えるでしょう。

 そのほかにもヒーローを描くあらゆる作家が、少年の夢を追いかけていると云うことができます。

 ここ20年くらいアニメやライトノベルでは美少女ものが流行し、美少女なくして作品が成り立たないような状況ではありますが、ぼくはどちらかといえば「少年」が、つまりヒーローが好きです。

 それはたとえば司馬遼太郎『燃えよ剣』の土方歳三が好きだということであり、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエンが好きだということでもあります。

 一生を少年の夢にささげ、武士として、あるいは騎士として死んでいった永遠の少年たち――かれらに対する憧憬がぼくを突き動かしている最も根源的な原理だと云ってもいいでしょう。

 しかし、すでにべつの記事でも書いているように、少年の夢には暗黒面が付きまといます。

 それはミクロのレベルでは純粋で、美しい夢でありえるかもしれません。しかし、マクロにおいては巨大な矛盾を抱え込むことになるのです。

 なぜなら、その夢を貫いて行こうとすれば、やがては血を流し、ほかのすべてを犠牲としなければならなくなるからです。

 この夢のダークサイドに飲み込まれた、あるいは自ら飛び込んでいったキャラクターとしては、『ベルセルク』のグリフィスと、『マヴァール年代記』のヴェンツェルがすぐに思い浮かびます。

 グリフィスは自分の仲間たちをひとりのこらず再生のためのいけにえにささげ、ヴェンツェルは王冠を得るため大戦争を巻き起こしました。

 かれらの行動は倫理的に正しいとは云えないかもしれません。むしろ悪魔の所業とすら云うことができるでしょう。

 それでもかれらは無矛盾に一貫しています。ふたりとも「夢がすべてに優先される」という原理に従って動いているだけなのです。

 小さなおもちゃの王冠を得るために、かれらはほかのすべてを犠牲にして顧みません。

 その矛盾のなさは、ひととして美しいと云いたくなります。たとえ何百万の人命を犠牲にしているとしても。

 『プラネテス』のウェルナー・ロックスミスや『ヴィンランド・サガ』のクヌート王なども、つまりはこの系譜に連なるキャラクターなのだろうと思っています。

 かれらはかれらなりに愛を求め、あるいは人類を前進させようと、あるいは世界に楽土をもたらそうと努力しつづけています。

 ですが、かれらの夢にもやはりダークサイドは付き物です。

 かれらは多くの人間の命を犠牲にすることでしか先に進むことができません。その夢はどこまでも血まみれなのです。

 かれらは、あるいは初めは正義を志向していたかもしれません。

 地上に光を! 世界に希望を! そんな美しい地点からスタートしたとも考えられます。

 しかし、それでもなお、どうしようもなくその夢は闇へと続いているのです。

 少年の夢とは加害者の夢。田中ユタカの『愛人』に「ひとごろしの夢」という言葉が出てきますが、まさにそういう性質のものなのです。

 少年はだれもが皆、初めはかれなりの正義のために動き始めます。かれが美しいと信じるもののために動き出すのです。

 だけれど、その夢を追っていけばどこかで善悪がたしかではない局面に出くわす。

 そこで、少年はどうするのか? ロックスミスやグリフィスのように夢を最上位の価値と置くことができれば、とりあえず矛盾はなくなります。

 すべては少年の日のあの夢のために! たとえ千もの万もの犠牲を払うとしても! そういい切ることができるでしょう。

 この意志が相対的に弱いと、たとえばクヌートのように苦悩することになりますが、とにかく決断しなければ前へ進むことはできない。

 しかし、その決断はあまりにも辛い。やがてその重さは泥のように少年の足にまとわりつき始めます。

 あるいは善と悪に分けることができず、あるいは善悪が簡単に逆転してしまう世界で、どのような選択を下せばいいのかわからない。

 このはてしない混沌のなかで、90年代なかば、ついに足を止めてしまう物語が出てきます。

 云うまでもなく『新世紀エヴァンゲリオン』です。

 これは70年代末期の『機動戦士ガンダム』の末裔とも云うべき作品ではありますが、『ガンダム』のアムロがときに逃げ出し、ときに文句を云いつつも最後までロボットに乗りつづける(現実に関与しつづける)ことを選んだのと対照的に、碇シンジはついにロボットに乗らないことを選びます。

 かれは善悪明暗黒白がさだかではない状況に耐えられず、その場に立ちすくんでしまうのです。

 これが少年の夢の行き着くところでした。

 「さあ、世界を救うがいい」と云われても、そうすることができない! いつのまにか少年の夢はとほうもない迷路に入り込んでしまったようです。

 こうして、90年代中盤以降の物語において、「少年と冒険の時代」は終わりを告げ、「少女と日常の時代」が始まります。

 それまで流行しつづけていた冒険の物語は嘘のように少なくなり、そのかわりに日常系とか無菌系とか云われる美少女たちの掛け合いの物語が主軸となっていくのです。

 もちろん、その後も『ONE PIECE』や『HUNTER×HUNTER』のような「少年の夢」の物語はいくつもヒットを飛ばしています。

 しかし、ルフィは善悪を判断することを自ら放棄しているように見えます。

 かれの行動原理は「自分が腹が立った奴は殴る」ことであり、その行動はある意味で支離滅裂です。

 ルフィは自分の行動による社会的インパクトの責任を取ろうとはしません。かれにとって最も大切なものは自由であり、正義ではないのです。

 かれにはたしかに行動への強いモチベーションがありますが、それは少年の夢のダークサイドを意図的に無視し、見ないようにすることによって成り立っているようにも思えます。

 じっさい、かれは国家や政府、果ては世界に至るまで深甚な影響を与えているはずなのですが、そのことにはまるで興味がないように見えます。

 考えれば何が正しいのかわからなくなって立ち止まることになるから、考えない。それがルフィの選択であるようです。

 そしてまた、『エヴァ』が大ヒットを記録すると、こんどはその停滞に反対する作品が出てきます。

 うだうだ悩んでいるばかりでいつまでも行動しようとしないくらいなら、とにかく決断して行動しよう!という価値観の登場です。

 その代表作は『DEATH NOTE』であり、『コードギアス 反逆のルルーシュ』であるでしょう。

 ぼくはいまでも時々考えるのですが、夜神月はどこで間違えたのでしょう。

 かれは最後に世界を脅かす魔王のようになり、「悪役」として裁かれることになってしまいました。

 ですが、ぼくは世界を救いたいというその少年の夢そのものは間違えていとは思わないのです。

 もしそれを否定するのならほとんどすべての少年漫画を否定することにつながってしまう。

 それなら、目的のためにひとを殺したことが間違えていたのか? つまりデスノートを使わなければ良かったのだろうか? ひとりも殺していなければ主人公のままでいられたわけなのか?

 しかし、過去の『少年ジャンプ』の主人公たちも、かれらにとっての悪を殺すことによって制裁しています。

 正義を貫き通すことは悪を殺すこと。それ自体が間違えているとは必ずしも思いません。

 とはいえ、やはり月はやり過ぎている。かれは自分自身を「神」とみなし、無関係のひとまで容赦なく殺すようになっています。

 いったい何が月をそうさせたのでしょう。思うに、かれにはひとごろしの矛盾を引きうける心の強さがなかったのです。

 かれは自分の殺人行為を「神の御業」として正当化してしまった。

 そしていったんそうしたら、その後は際限なく正当化しつづけざるをえない。すべては正しいのだ、と思っていなければ気が狂ってしまう。

 じっさい、かれは「最初のひとり」を殺したときは布団にくるまって震えていたのです。

 しかし、殺せば殺すほど正当化は強まり、罪悪感は薄れていく。そして最後には魔王と化してしまうのです。

 少年の夢のダークサイドに跡形もなく飲み込まれたと云っていいでしょう。

 そして、今年、映画『風立ちぬ』が公開されました。それまで少女をしか主人公に設定してこなかった宮崎駿は、この作品でついに「少年の夢」へと回帰します。

 その夢にはダークサイドが付きまとうという矛盾は克服されたのでしょうか? そんなはずはありません。原理的にこの夢を突き詰めれば暗黒面へと至るのです。

 その証拠に『風立ちぬ』の主人公である堀越二郎はゼロ戦を開発し、日本を泥沼の戦争へと導きます。

 ある意味では世界大戦を引き起こした責任の一端はかれにあるとすら云えるかもしれない。少年の夢は紛れもなく「世界を滅ぼした」のです。

 それなら、堀越二郎は夜神月と同じなのか。

 いや、月があくまで悪役として処断されたのに対し、この映画の二郎は最後まで主人公であることを貫いている。

 だからこの映画は倫理的な意味で『DEATH NOTE』より後退している。そういうことが云えるのではないか。

 そうではないと思います。二郎はたしかに夢のために国をも世界をも滅ぼすことをひき受けているけれど、かれは決してそれを正当化してはいない。肯定しているわけでもない。

 かれは巨大な矛盾をひき受け、しかもそれを前にして立ちすくむのでもなく、まっすぐ前へ進んでいこうとしているのです。

 ただ、いくらまっすぐ進むとは云っても、自分を正当化はしないわけだから、時には考えこみ、自分自身に向けて「はたしてこの道でいいのか?」と問いかける必要がある。

 それがつまり、あの「風は吹いているか?」という言葉なのだと思います。

 「風立ちぬ。いざ生きめやも」。そういう確認をくりかえしながら、二郎はあくまで少年の道を歩みつづけます。

 いままでだれも突破することができなかった少年の夢の矛盾を乗り越えているという意味で、これはやはり歴史的な傑作だと云えるでしょう。

 しかし、そうは云っても、これはやはり少年の、男性の物語であるに過ぎません。そこには女性の視座が徹底的に欠けている。

 ほんとうはこの物語を補完するためには「少女の視点」が必要となるでしょう。

 このことについてはほかの記事でも書きました。少女の視点とは何か。それはつまり弱者の視点です。