(初めに書いておくと、この記事は海燕の個人的な「日記」なので、海燕に特別に興味があるという奇矯な読者以外読む必要がない記事です。そういう一部の特殊な例外的な読者さん以外は読み飛ばしてくださいませ。)

 うにー。最近、マジメに考えて記事を書いているから疲れるにゃー。いやまあ、重要なのは量より質であって、1日に何本も書いたから偉いというものでもないよ、という意見はまともにごもっともなのですが、質を確保するために量を必要とする一面もあるよね。

 なぜ急にやる気を出してたくさん記事を書き始めたかと云えば――なぜだろう? やはり川上さんと逢って話をして来たことが大いに影響してはいるのでしょうが、実は変化はそれ以前から始まっていていました。

 どこがターニング・ポイントだったかと云うと、『嫌われる勇気』を読んだところですね。それはぼくにとってまさに衝撃的な「事件」でした。

 じっさいには『嫌われる勇気』そのものに偉大な効果があったというより、それまで蓄積していた経験値のおかげでレベルアップの機会を得た、というほうが正しいとは思います。

 何十年もかけて少しずつ成長してきたものが、大きな変化のきっかけを得て爆発した、というか。そういうわけで、信じてはもらえないかもしれませんが、いまのぼくは過去のぼくとはまったく違います。

 それはもう、劇的な違いがある。20年にもわたってぼくのなかに燃えていた「怒りのほむら」は、もうぼくを焼きはしません。どうしようもないかと思っていた劣等感や自傷的な意識もほとんどは消えてなくなりました。

 つくづく、ひとは変わるものなのだなあ、と思います。それは何かひとつの原因に還元できるものではなく、ひたすら地味に成熟しつづけてきたその結果なのだと考えます。

 ぼくは変わった。しかし、おそらくインターネットを見ていてもその違いはよくわからないでしょう。直接逢ってもわからないかもしれない。いや、わかるかな。服装が変わったから。

 以前のぼくだったら首に布巻こうとか思わなかったに違いない。ユニクロの780円だけれど(笑)。最近のぼくは似非リア充野郎と化しています。おかしなものです。

 かつて、ぼくは「ひとりの傍観者」であることを良しとし、その立場からなるべく世界に良い影響を与えたいと思っていました。しかし、いま、ぼくは「自分という物語の主人公」であることをひき受けたいと考えています。

 いや、自分のなかではほんとうに大きな変化なんですけれど、端から見ていると「また云っている」かもしれないなあ。でも、ほんとうに一段階レベルアップした実感はあります。何より感情のアップダウンがゆるやかになった。

 まあ、お前の内面になんか興味はないから、もっとコンテンツを紹介しろ、というひとも多いだろうけれど、もうしばらく話させてください。

 ぼくの人間としての目標は「ちゃんとした大人になる」ことです。それは経済的なこともそうですが、何より人間的に自立することですね。

 以前はそれはあまりにも遠い目標であるように思われていましたが、いまはだいたい七合目くらいまで来た気がします。あと、1年、2年というところかなあ。そのあたりが最後の勝負になってくるはず。

 いちばん辛いところは乗り越えたという実感があります。そのときはもう、七転八倒して苦しみましたが……。でも、いまはその苦闘にも意味があったのだと考えることができる。すべては無意味ではなかった。

 当面の目標は「大人になる」ということ。おそらく