まだ書き足りないので、先ほどの記事と同じテーマでもう一本書いてみます。少々異なる角度から語ることになりますが、同じことを云っているのだということが、わかるひとにはわかるはずです。

 以前にも言及したことがあるかもしれませんが、栗本薫に「コギト」と題する短編があります。まったく有名な作品ではありませんが、ぼくはこの話がしみじみと好きです。

 それはある日突然、「自分ひとりだけの世界」に行ってしまった女の子の話で、彼女がその「自分ひとりだけの世界」で、ああでもないこうでもないと延々と思考を巡らすさまがひたすらに一人称で描かれます。

 そして最後だけ三人称になり、「その外の世界」を描写して終わるのです。タイトルの「コギト」とは、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」から採られています。

 つまり、これもまたわかるひとにはわかることに、この小説は「唯我論の地獄」、即ち「すべてが自分に回収されるナルシシズムの檻」の辛さ、苦しさを描いているのです。

 自分ひとりだけしかいない宇宙。「他者」が存在しない世界。それは荒唐無稽な妄想のようですが、しかし、病んだ現代社会においては、ひとはどうしてもこのような生き方を強いられることになりがちです。

 ほんとうの意味で「他者」と触れ合うことをせず、ただ自分の頭の中だけですべてを完結させて、ぐるぐると想像だけを強化していく、そういう地獄。

 その「檻」からいかに脱出し、「健康な自我」を獲得するかということが、ぼくがずっと考えているテーマです。

 さて、世の中には「オタク」というひとたちがいます。このオタクというあり方も、見ようによってはある種のナルシシズムの表れと見ることができるでしょう。

 何しろ、かれら(ぼくら)は現実を見ない。延々と「自分だけの妄想の世界」を楽しみ、そこに耽溺し、「他者」とのコミュニケーションを遮断しているように思えます。

 じっさい、そういうオタクは大勢いるようにも見える。しかし、ぼくは必ずしもオタクが「自分ひとりだけの宇宙」に閉じこもっているとは思わないんだな。

 オタクでありながら「世界という名のコミュニケーションのネットワーク」に接続し、健康でありつづけることはできる。何であれ「自分が好きなもの」を通して、常に現実世界と接触しつづけることは可能であるわけです。

 『すべてはモテるためである』の二村ヒトシの言葉に従うなら、オタクであることそのものはキモチワルくはない。ただ、オタクをこじらせていることがキモチワルいのだということになる。

 オタクをこじらせるとはどういうことか。それはつまり、どちらがより偉いかを競う権力闘争にハマったり、ほんとうは軽蔑してる「仲間」と傷を舐めあったり、異性を蔑視して束の間の優越感にひたったりすることです。

 そう、いま思えば、『新世紀エヴァンゲリオン』で庵野秀明が批判していたのは、オタクそのものというよりは、この「オタクをこじらせたキモチワルいひとたち」のことだったのだろうと思います。

 そして、ぼくもまた、いまはその批判に共感します。繰り返しますが、オタクであることそれ自体はキモチワルくはないのです。

 いや、もちろん、オタクであることそのものがキモチワルいのだ、というひとはいますが、そういうひとはじっさいに「あるひと個人」を見ているというよりは、「自分の頭のなかのイメージ」を見ているに過ぎないから、無視してかまわない。ようするにそのひと自身がナルシシズムにハマっているわけなのですから。

 「オタクであること」はそれ自体は、「何か熱中できる好きなこと」があるということですから、ポジティヴなことです。しかし、「ちゃんとできない(不健康である)」オタクは、たしかにキモチワルいのです。

 くり返しますが、言葉の表面的な過激さに惑わされないでください。『すべてはモテるためである』から引用しましょう。

 あなたがオタクでありながら、オタク仲間とうわっつらでヘラヘラ【濃い冗談】とやらで笑いあいながら、心の底ではお互いを憎んだり嫌いあったりしてるのは、だからなんですね。類は友を呼ぶんです。そういうあなたたちを見て一般の人は「オタクってキモチワルい」と思うんです。お互いウンザリしあいながら酒呑んでヘラヘラしあってる「ちゃんとしてない一般人」のキモチワルさと、じつはよく似ているんですけどね。そのままだと、あなたは、いつまでたっても【ちゃんとしたオタク】にはなれないし【ちゃんとしたオタク】と友だちにもなれません。

 この場合の「ちゃんとしている」ということは、つまり「健康である」ということだとぼくは思います。もちろん、肉体ではなく、精神が健康であるということです。

 この社会においては、ひとは簡単に「エラソー」だったり「バカ」だったりする「キモチワルいひと」になってしまいます。「キモチワルいオタク」もまた、そのバリエーションのひとつです。

 二村さんが書いているように、それはじっさい、「キモチワルい一般人」の似姿であるに過ぎません。極端にオヤジ的だったりする態度を好むオタクのひとっていますよね。あれはある意味では自然なことなのです。

 そこから脱して「ちゃんとしたオタク」になることは、つまりは「ナルシシズムの檻」から脱出することと同じことです。ぼくはいま相当に「キモチワルい」自分を見つめ、「ちゃんとしたひと」になりたいと思う。

 『新世紀エヴァンゲリオン』では、