ども。ようやくコミケアフターの脱力感から回復してきた海燕です。実は通信販売で購入された方に同人誌を送ったものの、宛先を間違えたせいで何冊かの本が自宅に返ってきてしまいました。まだ届かない方はもう数日だけ待ってください。申し訳ありませぬ。

 さて、何の話をするべきか――コミケで何かと印象的だったのは、『艦これ』コスチュームの女性たちだったので、その話でもしましょうか。

 いや、べつにコスプレの話をしたいわけではなく、いまのオタクシーンを一望してみると、やっぱり最も注目するべきは『艦これ』とかその辺のソーシャルゲームの流れですよね、と思うわけです。個人的にはアニメよりラノベより興味を惹かれる。

 だからといって自分でやろうと思わない辺りがぼくのダメなところであるわけですが、じっさい、ぼくはこの種のゲームそのものには、そこまでの関心がないのだと思う。ぼくが惹かれるのは、あくまでそのゲームのまわりに発生してる「砂場」なのです。

 どういうことか。「砂場論」とは1年ちょっと前に話題になった話で、このインタビュー(http://animeanime.jp/article/2013/04/11/13652_2.html)が元ネタになっているらしい。

 この記事のなかで、プロデューサーが『革命機ヴァルヴレイヴ』という作品について以下のように語っているんですね。

アニメが好きだったり、メカが好きで見てくれる方々やスタッフ含めてみんなが、毎週遊べる砂場みたいなものになれたら幸いですね。

 で、正確なソースがわからないので孫引きになりますが、この発言のさらなる元ネタは庵野秀明による1999年のインタビューにさかのぼるようです(http://d.hatena.ne.jp/mattune/20130512/1368374772)。

庵野 ロボットアニメの流れみたいな、それを一通り検証してですね。
   で、その後に、その時に、その時の主流だった『セーラームーン』を
   検証してみた。で、『セーラームーン』で分かったのは
   「緩い世界観というのがいい。要は遊び場を提供すれば良いんだ」
   という事だったんです。
   個性的な、分かりやすいキャラクター配置と、遊べる場所。
   だから、何体かの人形と砂場が用意されていて、
   ファンがその砂場で自分達で遊ぶ事ができるというのが、
   『セーラー』人気の秘訣だと思った。だから、わざと緩く作る。
   ガチガチに作っちゃうと、余裕が無くなるんだよね。
   最近のサンライズのアニメとか、そうだと思うんですよ。

 ある作品の周りに発生する「砂場」。あるいは「遊び場」。ぼくにとっては、『艦これ』のようなソーシャルゲームの最大の魅力はそこにあるように思えてなりません。

 まあ、ぼく自身はそこまで『艦これ』や『モバマス』にくわしいわけではないから、見当外れのことを云っているかもしれないんですけれどね。でも、『艦これ』をやっている人たちを見ていていちばんうらやましいのはそこなんですね。

 とはいえ、じっさいにゲームをプレイするのは億劫だから、何とかゲームをやらずに「砂場」を楽しむすべがないだろうか、と思うわけなんですけれど。

 ともかく、ひとつ云えることがあります。『セーラームーン』の段階では「何体かの人形と砂場」で満足できていたのかもしれないけれど、最新のソーシャルゲームでは「何百体かの人形と広大な砂場」が用意されている、ということです。

 端的な事実として、「人形」の数は膨大に増え、またその背景となる世界も複雑怪奇に発展している(あるいは現実世界と設置することによって広がりを獲得している)。

 この「広い砂場」性こそが、ソーシャルゲームの最大の魅力であるように思えます。コミケで『艦これ』がナンバー1ジャンルになったことは必然としか云いようがありません。それはコミケのような二次創作の場でこそ、最も輝くコンテンツなのですから。

 まあ、でも、当然というか、「砂場」的な作品には批判も存在しています。


先ず、一番最初に書いておきたいことは…あのね、上記のエントリを読んでも、引用されているインタビューを読んでも、自分、全く共感できなかったんですよ。もうね、一切、共感できなかった。

(中略)

そういうフィーリングの持ち主からするとね。例えば、「ヴァルヴレイヴ」みたいな作品を観ると凄く勿体ない気がするんですよ。良い悪いじゃなくて"勿体ない"。沢山の人が力を合わせて作って、時間とお金を掛けて、その結果が「砂場」って勿体なくないですか? っていう。そこは、遊びなんかいらないんじゃないか、シッカリと作りこむべきなんじゃないか。で、受け手ももっと"本気"になるべきなんじゃないかって…そりゃスピルバーグとかコッポラ、キューブリックの映画みたいな完璧なものを目指せとまでは言わないまでも、裏側はどんなにボロボロのハリボテでもいいから、表向きだけは完璧な…立派なエンターテインメントを作ってくださいよって思うんですよ。今だと、そのハリボテの裏側を敢えて見せちゃって、突っ込み入れられるのを待ってる状態なわけじゃないですか。それは、ちょっとどうなのよって感覚がある。それは、「砂場」で遊ぶことができない人間の劣等感と僻みが大部分を含んでいるという自覚をした上で。


 で、まあ、ぼくなんかはこういう意見もわかるわけなんですよ。いくら「砂場」が楽しいとしても、「遊び場」に転がっている人形や玩具に心惹かれるとしても、それはやっぱりガチでマジな「傑作」があって初めて楽しいと思えるものなんじゃないか、という消せない想い。

 「作品を通してのクリエイターとのマンツーマンでの対話」を置き去りにして、「砂場」だけがひたすらに発展してゆくことに対する、何とも云えない違和感。それはなくはない。

 ぼくは6年以上前に「二次創作は一次創作をスポイルするか?」(http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080411)という記事を書いていて、その時は自分が何を云いたいのかうまく説明できなかったんだけれど、ようはこういうことなんだよね。

 「砂場」の面白さが先行して「作品」の魅力を削ぐようなことがあるとすれば、本末転倒ではないか? 「砂場」でウケるために物語が歪んだり、演出が手抜きになったりすることはあってはならないのではないか?

 いや、仮にそういう「ゆるい」作品の存在を認めるとしても、「ガチの傑作」が正当に評価されることがない状況はおかしいのではないか。そういうふうに考えていくと、ぼくもまたちょっと「砂場なんていらない!」と叫びたくもなる。

 しかし――とりあえずその意見は下げることにしましょう。『艦これ』なり『モバマス』がそういう問題点を抱えているというわけではないのですから。