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 ここにひとり子供がいるとしよう。早熟、聡明、その歳で世界の秘密は大方知り尽くしたと思い込んでいる子。つまりこの世は退屈な劇場、日々似たような劇が演じられるばかり、そう易々と見抜いたつもりになって、早くも人生に飽き始めたようすの十二歳。

 さて、もしこの子に一編の物語を差し出し、世界の広さを思い知らせてやりたいとするなら、あなたはどんな話を選ぶだろうか? 現代文学の皮肉な一作? 本格推理の晦渋な名作? それともその年最高のベストセラー?

 ぼくなら、そう、入江君人の最新作『王女コクランと願いの悪魔』を手渡して反応を待ってみたい。作者自ら最高傑作と語るこの一作は、波瀾万丈、抱腹絶倒、喜劇にして悲劇、小説を読むことの魔法に充ちている。

 何より、子供なら夢中になって読み進めたくなるような強烈な物語の魅力がある。もし可能ならタイムマシンに乗って少年時代のぼくに読ませてやりたいくらい。

 おそらく、相当に生意気な子供でも、一度読み始めたが最後、ページを捲るほどにひき込まれ、時間を惜しんで読み耽るに違いない。作家入江君人、掛け値なしの最高傑作である。

 物語は、ある大帝国の王女コクランのもとに名なしの悪魔があらわれるところから始まる。悪魔はいう。何でも望むがいい、どんな願いでも叶えてやろう。

 ところがコクランは金銀財宝など飽きるほど所有する身、しかも絶世の美貌のもち主、いまさら何ひとつ望むものはなかった。しかし、悪魔としては主人に何かしら願ってもらわなければ立場がない。

 かくして、何としてでも願いをいわせようとする悪魔と、何ひとつ望むものがない王女は、日夜仲良く喧嘩しながら虚々実々のやり取りを繰り広げることとなる。

 世にも不思議な物語の始まり。果たして悪魔が願いを聞き出すのが先か、それとも王女が悪魔を追い払うのが先か、コミカルでいて時に火花散るふたりのせめぎ合いは、読めば読むほど面白い。

 だが、ただそれだけなら、既にたくさんの物語を通過して来ているであろうその子供にとっての「黄金の一冊」になるほどの作品とはいえないだろう。

 たしかに切ないし、笑えるし、意外な展開に驚かされもする、文句なしのエンターテインメントではあるのだが、それだけなら、ようするにそれだけのことだ。この世に優れた娯楽作品は千も万もあるに違いないのだから。

 だれかにとっての黄金の一冊になる本とは、ただ優れて面白いだけではいけない。そこにその作者だけが生み出せる狂気なり天才なり創造性なりが込められていて初めて、それは特別な本になる。

 それでは、『コクラン』にその狂気と天才はあるだろうか? 紛れもなくある、と断言しておこう。数々の伏線を華麗に消化しながらスリリングに進んでゆく終盤の展開は、子供ならぬ練達の読み手をも唸らせる迫力に充ちている。

 じっさい、読者の気持ちを捉えて離さない卓抜な技巧は、前作から見ても長足の進歩を遂げている。男子三日会わざれば刮目して見よではないが、いったいこの間に何があったのかと勘繰りたくなるほど。

 そして何より、最後の最後に孤独な王女コクランを待つ過酷な運命は、多くの読者を驚愕させるだろう。

 ほんとうに優れた物語とは、いくつもの伏線や描写を巧みに積み重ねてゆくために、後になればなるほど面白くなるものだが、『コクラン』もまさにそれにあたる。

 さりげないひと言や、何気ないしぐさのひとつひとつが、意外な重い意味を伴って迫ってくるクライマックスの激動の展開は、よほどひねくれた読者をも満足させることと信じる。

 じっさい、こんなふうに、ページを捲る手ももどかしく、先を知りたいと願ったのはいつ以来のことだろう。小説を小説たらしめ、読者をして次の話を早く読みたいと思わせる、あのドラマティックなダイナミズムが、ここにはたしかに存在している。

 ああ、コクランの運命は? 最後の一ページ、一文字に至るまで、物語がだれて緊張感を失うことはない。素晴らしいストーリーテリングのマジックだ。

 数々の事件を通して、王女コクランと願いの悪魔とは、しだいに相手の本質を知るようになっていく。コクラン。この世のものとも思えないほど美しい黒髪の少女。怜悧な頭脳と策略家としての資質を併せ持ち、策謀渦巻く宮廷で、多くのひとに命を狙われながらもなお生き延びている娘。

 しかし、コクランをコクランにしているものはただそれだけではない。彼女にはひとつの秘密がある。その秘密が明かされるときこそ、コクランのすべてがわかるときだ。

 一方の悪魔にしても、決して単純な人格ではない。傲岸不遜、そして豪放磊落とも見える性格のこの魔界の貴族は、しかしコクランと同じく何かしら秘密を抱えているようでもある。その秘密もむろん、物語が幕を閉じる前に明かされる。

 そしてついに語られるコクランが胸に秘めた願い――世にも美しく青褪めた彼女のくちびるがそのひと言を漏らすとき、あなたの目には涙がひかるかもしれない。ああ、そうだったのか、と。そんな想いを秘めて生きて来ていたのか、と。

 ただ文字のなかにしか存在しない単なる架空のキャラクターが、紛れもない「実在の人間」へと変身する瞬間である。そう、コクランはいま、ぼくにとってひとりの実在する人間だ。

 ぼくは彼女がこっそりと笑う顔を知っている。美味しいお菓子に舌鼓を打つときのようすを知っている。また、悪魔も、「幽霊」も、コクランの父たる国王も、この物語においては、ただの書き割りの登場人物であることをやめて、活き活きと生きている。

 それはもう、主役や脇役、敵味方、善悪といった区分では測りきれない。だれもが自分にとって最善と思えることをしている。悪役ともみえる人物にしてからそうなのだ。

 そしてコクランも自分にとって大切なものを守ろうとして決断する。その美しくも哀しい決意を知ったとき、ぼくは愕然と打ちのめされた。

 だれが、このような子をこの世に生み出したのだ? 何が必然だ、何がそれぞれの正義だ、こんな小さな少女をこのような展開に追いやってよいほどの正義がどこにある?

 だが、物語の外にいるぼくの義憤が物語を動かすことはない。窮地に追いやられたコクランを救えるものは物語のなかの登場人物たちだけ。

 やがて最後の劇の幕が上がる。ひとつの死から始まるそのエピソードは、怒涛の迫力で読者を圧倒することだろう。いくつかの想いと、いくつかの願いが錯綜し、人々の野心と思惑が交錯するとき、ひとりの少女が犠牲の生贄としてささげられる――緊迫の瞬間!

 そして悪魔は決断する。この世でただひとりのその少女のために。

 作者はいたって上品に、しかし圧倒的な凄みをもって、宮廷で繰り広げられた陰謀劇の顛末を綴っていく。互いに愛しあい、想い合いながら、それでも時にすれ違う人々の切なさ、可憐さ、愛おしさ。その先にあるひとつの運命。

 読者はその展開を読みながら、どうか、と願わずにはいられないだろう。どうか、この子たちを、幸せにしてあげてほしい、非情で冷たい世界の摂理を曲げることになるとしてもなお、物語構成の聖なる均衡を崩すことになるとしてもなお、と。

 しかし、最後まで物語のバランスが崩れ去ることはない。すべては必然に従って幕をとじる。小さな満足のため息がくちびるから漏れる。ああ、ほんとうに素晴らしい小説を読んだ。美しい、奇蹟のようなお話を目にした。

 果たしてこのまま全一巻で完結するのか、それともさらなる先へと続いていくことになるのかはわからないが、ともかく実に美しく終幕を迎えた作品である。

 今年のベストの一角には必ず入って来る出来だと断言できる。だから子供よ、世界に退屈するよりも前に、この本を読んでみるといい。これは、時にひとが得ようともがいて得られないもの――真実の愛についての物語だ。

 子供よ、この本がお前にとって、人生そのものの意味をも変えてしまう黄金の一冊になるかどうか、それはわからないが、十分にその可能性はあることと思う。

 だから、さあ、読むがいい。この、冷ややかな王女と傲慢な悪魔の物語を。そして、やがて時が過ぎ去った時にでも想い出すがいい。あの時、ほんとうに夢中になって読み耽ったものだと。まさにこの本はそうするにふさわしい。

 読み進めるほどにもっと読みたくなり、読み終えたときには満足とともに渇望感がのこる。これは、世にもまれな、そういう神秘な一冊だ。