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夜中に起きて何をやっているかというと、城平京さん原作の漫画『スパイラル 推理の絆』を読んだり、インストールしなおした『魔法使いの夜』をプレイしたりしているわけなのですが、いやー、世の中、面白いものがたくさんあって楽しいですね。
このほかにも万巻の書があり、常に進歩しつづけるコンピューターゲームがあり、また様々な映像が音楽があり――まず一生かけても消費し切れないほどの娯楽に充ちているのが現代社会だと思います。
そう、世界は面白い。読者(傍観者)として一生を過ごす限り、いかなる意味でも退屈はない。そのはずです。ところが、純粋な読者としてあろうとすると、やっぱり人生はむなしいんですよね。
ぼくはわりといままで読者で十分だと考えて来ましたが、30代も半ばになって、「やっぱり自分の人生を生きたいなあ」と考えるようになりました。
これはぼくの人生そのものを変えるほどのコペルニクス的転回だったりするのですが、つまり、読者からひとつの物語の主人公(行動者)へ、自分の役割をチェンジさせる必要があったわけです。
そうしないと、ただ読者であることも十分に楽しめないと感じたんですね。だって、この世の娯楽はあまりにも量が多すぎて、いったい何を選べばいいのかわからなくなるくらいなのですから。
しかし、いざ主人公として自分の物語を生きようとすると、そのむずかしさはまさに「リアルはクソゲー」レベルでした。
何しろ、36年間ひたすらに傍観者として生きて来たぼくは、何の武器もそろえていない。このきびしい世界を生き抜くための方法論をひとつも持っていないのです。
それでは、どうすればいいのか? 結局のところ、ひとつひとつ地道に努力して揃えていくほかないのだろうけれど、いまさらそんなことをしていて間に合うのか?という疑問がある。
だから焦るのだけれど、結局は地味なことを地味にこなしていくしかないんだろうなあ、ということもわかるんですよね。ひとつひとつ、始めたことを終わらせて、そのくり返しのなかで、少しでも成長していけるようがんばりつづけるよりほかない。
しかし、そもそもぼくはいったい何が欲しいのでしょうか? 「自分の物語を生きる」とはどういうことなのか? うーん、わかるようなわからないような。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを探すのだ」。いったいそのピングドラムとは何なのでしょう? ひょっとしたら既にぼくはもうそれを持っていて、しかしそれがピングドラムだとは気づかずにいるのかもしれないなあ、などと思ったりもします。
ふと見あげれば夜空にはぽっかりと欠落のような紙の月。あるいは幻想かもしれない「幸福」を望むことは正しいのか、間違えているのか、むずかしいところです。
思うに、幸福とは
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