極論、周囲から批判される人は「良い感じ」なのだ。事実はどうであれ、周囲の人はあなたに嫉妬しているからこそ、あなたを批判するのだ。誰もが自分が心からそうしたいと思うような人生を生きたいと思っていて、しかし、何らかの理由や制約があってそれを実行することができない。だからこそ、自由に生きている(風に見える)人を見ては(自由に生きれない自分を肯定するために)「あなたは間違っている」みたいなことを言いたくなってしまうのだろう。
弱いなら弱いままで。
何が批判を狂わせるのか? 「正しさの毒」に注意しよう。
こんな記事を読んだ。
んー、まあ、そこまでは思わないかな。たしかに嫉妬からひとを批判する人は大勢いるだろうけれど、「批判の動機は大半が嫉妬だ」というのは、いかにも批判される側に都合がいい決めつけであるように思える。
ちゃんとした理があって批判している場合だっていくらでもあるわけですからね――というところまではだれでも考えるだろう。もう少し考えてみる。
昔からよく思うのだけれど、ひとはなぜ何かを批判する時、そこに「過剰なもの」を付け足さずにはいられないのだろう。この場合の「過剰なもの」とは、皮肉や、厭味や、揶揄や、罵倒や、そういうもののことである。
何かを批判したいなら、ストレートに批判すればいい。それなのに「だからバカは困る」とか「このカスがwww」とか「まあどうせあなたにはわからないでしょうけれど」とか、そういう余計なことを足してしまうのは、いったいどうしてなのだろう。
そんなことをしても相手がその批判を受け取りにくくなるだけで、何の得もないではないか? 合理的に考えれば、「過剰なもの」は批判そのものの論理性を疑わしくするだけで、何の意味もないと考えるべきだと思うのだが……。いったい何なんでしょうね、「過剰なもの」とは?
この疑問に対するひとつの答えは、そこで「権力ゲーム」が行われているからだというものだ。つまり、ひとを批判する際に皮肉や罵倒を加えるひとは、その行為によって自分が相手より「上」であることを示したいのだと考えるわけだ。
一種のパワーハラスメントがそこで行われているということになる。
これは、かなりあたっていると思う。じっさい、ひとの「上」に立ちたくてたまらないのだろうな、と見えるひとはインターネットにも大勢いる。
常にだれかを小馬鹿にして、いやみったらしく嘲笑したりしている人物だ。あなたにも心当たりがあるのではないだろうか?
そういう人がなぜ正面から合理的に批判するだけで済ませられず、わざわざ「笑い」という行為を行うかというと、笑うことによって「自分は相手よりはるかに上だ」と誇示したいからだと思われる。
「自分にとってこの相手は真剣に論争するような対象ではなく、ただ一笑して済ませられる程度の存在に過ぎない」というアピール、それが笑いなのだ。
ようするに相手と同じ土俵に立つ気がないのだろう。同じ土俵に立ったら、ひょっとしたら負けるかもしれないから、これはある意味で賢明な戦術ではある。たったひとつ、限りなく不毛であるという一点を除いて。
そうなのである。批判に伴う「過剰なもの」とは、しばしば周囲に対するアピールでしかないのだ。「自分は大人ですよ」、「この程度の問題に真剣になったりしませんよ」、「こんなにも精神的な余裕がありますよ」というアピールのためにひとは「過剰なもの」を使う。
ぼくから見るとばかばかしくも思えるが、そういうものなのだ。だからインターネットでは批判するだけでいいところを皮肉ってしまい、皮肉るくらいでやめておけばいいところを罵るひとが続出する。
そうして、「理」は失われて、感情的な極論と極論のぶつけあいに終始することになる。「どちらがよくうまく厭味をいったか」という、限りなく低次元の争いを、あなたも何度となく見てきたのではないだろうか。
ぼくはなるべくそういうことに巻き込まれたくない。しかし、それでもやはり言葉の端々に「過剰なもの」がただよってしまうことはある。なぜか。
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