たまごまごさんの「オタクが融解した、「げんしけん」二代目が、つらい」という記事が面白い。


 かつて「オタク」と呼ばれた人たちが、後ろめたさやコンプレックスのない「ライトオタク」になって来ている、さらにそこからサブカルやヤンキーと融解して、「普通の人」になって来ているという話は以前しました。

 そういう変化は自然、作品にも反映されるわけで、オタク自己言及漫画の代表格である『げんしけん』からも古い意味での「オタク」がいなくなった。それが見ていて何か辛い、という趣旨の記事です。

 なるほどなー、と思いますね。当然、そういう人はいるだろう、と。しかし、面白いと思うのは、ぼくはまったく逆なんですよね。ぼくの場合、「オタクが融解した。幸せ」なのです。

 ぼくは自分が「オタク」と呼ばれることにずーっと違和感を抱いていて、「オタクといわれてもなあ……」と考えていたのだけれど、昔は「そうはいってもオタクでしょ」としか見てもらえなかった。あるいは「お前なんてオタクの風上にも置けねえ!」とかね。

 「オタクであるか、ないか」なんてどうでもいいと思うんだけれど、昔はそこに何かしらの意味があると考える人が多かった。

 そして、「オタク」であると自認する人はそこにアイデンティティを見いだしてよくわからないエリート意識に耽ったり、あるいは結束したり反発しあったりしていた。

 いまから10年以上前のことです。しかし、ぼくはこの「オタク」という概念にどうしてもなじめなかった。だって、その時はオタク趣味を楽しんでいても、べつにオタク趣味「だけ」に特別な価値を見いだしているつもりはなかったから。

 たしかにアニメも漫画も好きだけれど、それだけを特別に好きなのかと行ったら違う。あえていうなら「物語」というか「お話」が好きなのであって、ライトノベルとか萌えアニメといった表現形式は、その時一時の流行であるに過ぎず、本質ではないと考えていた。

 じっさい、そういう表現形式にはそれなりの栄枯盛衰があるわけです。一時のぼくはエロゲにハマっていたけれど、いまでは1年に1本もプレイしないもん。

 しかし、広い意味での「物語」の需要がなくなることはない。おそらくそれは、人類の歴史が続く限り、形を変えて続いていくものでしょう。

 だから、「物語オタク」と呼ばれるならまだわかるけれど、その時代、その時代の文化のオタクといわれることには違和感があるというのがぼくだったのでした。

 まあ、インドア派っていわれたら否定できないな、というくらいですね。それにしても、アウトドアで面白そうなことがあったら行くよ?くらいの気持ちはあったし。

 つまりはぼくはその時代、その時代で「自分が面白いと思うもの」を追いかけて来ただけなんですよね。

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