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 漫画『四月は君の嘘』が完結を目前にしています。ぼくとしてはかなり面白い作品だったのだけれど、もうひとつ「軽い」印象を受けるうらみもありました。

 音楽ものと青春ものと恋愛ものと難病ものを組み合わせた贅沢な物語であるにもかかわらず、いまひとつ心に残るものが弱いというか。

 ぼくは技術的にどこがどう問題だと指摘できるほどの「目」を持ってはいないけれど、精神世界の深層を描き出すほどの深みはなかったのではないかとは思う。

 ただそのかわり青春の爽やかさをあわざやかに見せてくれてはいたと思うので、決して凡庸な作品とはいえないかと。現代最高のリア充漫画ですね。リア充の良さというものをこれほど思い知らせてくれる漫画はない。いや、ほんと。

 さて、この漫画の最新回についてぼくの友人の地獄的生命体てれびんがちょっと面白いことをいっていたので、その話をしたいと思います。

 てれびんがいうには、主人公がおそらく作中最後になると思われる演奏を行う最新話の時点で、主人公の「格」が十分に高まったように思えなかった、というのです。

 どういうことか。それはつまり、主人公の「凄さ」を十分に描ききれなかったということなのではないかと思うのです。物語の都合上、「いままでのどのピアニストよりもはるかに凄い」という描写になっていなければならないのに、そこまでは届かなかった、と。

 ぼくは必ずしもそうは思わないのですが、てれびんの見方だとそういうことになるらしい。

 なるほど、まあ、わからなくはない見方です。一般にエンターテインメント漫画とは、物語が先へ進むにつれ、「より凄いもの」を見せていかなければならないという縛りを持っています。

 もちろん、「いつも同じようなもの」を見せてマンネリの魅力で読ませる漫画もある。しかし、そういう作品は一定の人気は得られても、大ヒット作になることはないでしょう。だから、エンターテインメント漫画の表現は常に進歩していかなければならない宿命を持ってい。

 このことはジャンルを問いません。バトル漫画では「もっと凄い敵」を出して「もっと凄いバトル」を演出しなければなりませんし、料理漫画では「もっと凄い料理」を出さなければならない。そしてピアノ漫画では「もっとすごい演奏」というわけです。

 少年漫画ではしばしば「パワーのインフレ」が起こるとされますが、それも結局はこの「凄さのエスカレーション」のいち形態なのだと思います。

 さて、この「凄さのエスカレーション」を解決するためには、基本的に以下の三つのやり方しかないと思います。

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