自殺島 12 (ジェッツコミックス)

 森恒二『自殺島』が佳境を迎えていますね。

 法の通用しない「自殺島」に追いやられた自殺未遂者たちがそれぞれに社会を作り上げ、いま「戦争」に至ろうとしています。

 自衛のためとはいえ、ひとを殺しても良いのか? 善も悪もない凄惨な戦争の先に解決は存在するのか? 非常に重苦しい展開になっているといえるでしょう。

 この物語の基本の設定となっている自殺未遂者が追放される「自殺島」という設定は、もちろん荒唐無稽なものですが、ぼくたちの社会がじっさいに抱えている問題を考えてみれば、ある種の説得力を持っていることもたしかです。

 「活き活きとして生きていくというあたりまえのことに失敗した人々を抱える社会である」という問題です。

 この問題を考えるにあたって非常に興味深いのがいわゆる「戸塚ヨットスクール事件」ですね。

 体罰を肯定して教育を行うことを前提とした「戸塚ヨットスクール」に送り込まれたひとりの少女が入って三日後に自殺してしまった、などといった一連の事件です。

 この事件の30年後の戸塚ヨットスクールを追った『戸塚ヨットスクールは、いま』という本を読んでみると、スクールの教育理念やその歪みなどがよくわかります。

 ただ、ここには非常にむずかしい問題があると考えざるをえない。

 体罰を教育として肯定したり、いじめには「正しいいじめ」があるとしたりといったスクールの理念を肯定することは到底できません。

 しかし、それなら、いま現在苦しんでいる子供たち、若者たちやその家族をどう救えばいいのか? それに対して有効な手立てはだれもしらないわけです。

 いや、もちろん、この現代社会においても、大半の子供はすくすくと健全に育ち、ほとんどの若者はまっとうに生きていくことでしょう。

 ですが、それでも、なお、一部にはそのレールから落ちこぼれる人間がいる。

 そして、そういう人を救済してくれるシステムはどこにも存在していないのです。

 95%の人間は適応しているんだ、といってものこり5%をどうするのか?という問いに答えたことにはならないですよね。

 そういうひとはときにニートと呼ばれ、あるいはひきこもりといわれたりしますが、その名称の正否はともかく、この社会の脱落者であるとはいえると思います。

 まあ、ぼくもそのひとりであるかもしれないわけですが、その「当事者」、ないし「もと当事者」として、やはり問題は深刻であると思います。

 もちろん、ニートやひきこもりの問題は労働問題として考えるべき一面もあり、必ずしも本人たちに問題があるとはいえないかもしれません。

 すべてを本人たちの内面に見いだそうとすることはあきらかな誤謬です。また、精神的な病気なら専門家に対処を任せればいい。

 とはいえ、逆にいえば、状況が改善すれば社会に参画できる人間ばかりではないということにもなる。

 ぼく自身がまさにそうだと思うのですが、どうしたって社会に自分の居場所を見いだすことができそうにない人間もいるわけです。

 そういう存在にどう対処するか? どのようにすればかれらの心を救えるのか?

 いろいろな意見があり、またいくつもの理論が打ち立てられていますが、決定的なものはありません。

 もし