たとえば、どういう作品が好きですか、と訊かれたとき、「こういう作品です」とシンプルに答えることはむずかしい。

 もちろん、ぼくにもたくさん好きな作品はあって、そこには共通項もあるようなのだけれど、「こうだ」といい切った瞬間にすでに何かがずれ始めている気がする。

 それでもあえて言葉にするなら、ぼくはたぶん矛盾する概念の相克が見たいのだと思う。

 少々格好をつけたいい方になってしまった。もう少し噛み砕いた言葉にするなら、互いに相いれない観念がぶつかりあって火花を散らすところが見たいのだ。

 つまり、「こういう主題の作品だ」とはっきり言葉にして表せない作品こそが好きなのである。

 たとえば、娯楽作品であるはずなのにひたすら陰惨で淫靡であったりとか、そういう、内部に矛盾を抱えた作家性が好きだ。

 いい換えるなら、無矛盾に整合させられた作品には、ぼくは関心がない。

 わかってもらえるだろうか? エンターテインメントは好きだけれど、ただのエンターテインメントは好きではないということ。

 常にエンターテインメントの定石から逸脱する何かを秘めながら、それでも、なお、エンターテインメントの枠組みのなかになんとか収まった作品が好きなのだ。

 この場合、「エンターテインメントであること」を放棄して、「わかる人にだけわかればいい」と決めてしまったなら、矛盾がなくなってつまらない。

 その反対に「エンターテインメントであること」に特化して、「ウケさえすればそれでいい」と考えるとしても、矛盾がなくなってしまうので面白くなくなる。

 ぼくはあくまで相互に矛盾し対立しあう概念が衝突し相克しつづけるその現場にこだわりたい。

 ぼくはハッピーエンドの物語が好きだけれど、それもシンプルな予定調和になってしまうとやっぱり退屈に感じると思う。

 大切なのは「いま、そこ」で、過去のどの作品とも違う未知の物語が生まれているという感触なのだ。

 「こういうものだ」とか「これが正しいのだ」と訳知り顔で悟ってしまったその瞬間に、新しいものは生まれて来なくなる。

 ぼくはやはり何が正しいのかわからない五里霧中のなかから生まれてくる新作にこそわくわくする。

 「いったいこれは何なのだろう?」という謎と神秘を秘めた作品にこそときめく。

 わかってもらえるだろうか? 語りきれないものこそ語る価値があるということなのだ。

 だから、