きょう、7月30日はぼくの37歳の誕生日である。

 37歳――ほとんど信じられないような歳だ。

 35歳になったときも憂鬱だった気がするが、37歳となると、これはもう、逃げ場がない。

 ぼくはもはやいかなる意味でも若者ではない。ただの中年男性である。

 ほんとうに歳を取ったものだ、と思う。何か哀しいような気持ちがする。

 そんな日に、ぼくはまた自分の二面性について考えてみた。

 前の記事では、ぼくの人格は本来のものから歪んでいるのではないか、と書いた。

 これはだれしもそうであるかもしれない。

 生まれた時の自分そのままで生きているという人など、めったにいるものではないだろう。

 ひとの人格は世間に揉まれ、社会に揺らいでしだいしだいに変わっていき、みずみずしさと柔らかさを失って硬直していく。

 筋肉が凝るように、心もまた凝る。硬くなってより柔軟に変化しづらくなっていく。

 それが「老い」ということだ。

 10歳の頃にはもうすでに老いは始まっている。とすれば、37歳のぼくなど、老人もいいところだろう。

 しかし、これはぼくだけではないだろうが、ふしぎと、子供の頃から変わっていない部分も残っているように思える。

 ぼくのなかのある部分だけは、子供の頃の自然な柔らかさのまま、保存されているような気がするのだ。

 その「本来の自分(先天的な自分)」と「大人の自分(後天的な自分)」が矛盾しあい、対立しあい、それでも混ざり合うことなく、一定の純度を保って独立しているのがぼくという人間なのではないか、と思ったりする。

 ぼくはじっさい、37歳になったいまでも、部分的には子供のままなだ。そのほかの部分はすっかり老いて硬直してしまっていることもたしかだが……。

 ひとは一般に加齢によってさまざまな邪念を身につけて硬直し、変化を恐れるようになる。

 さまざまな「常識」という名の固定観念によって硬く、硬く変わっていくのだ。

 ぼくは可能な限り柔らかくありたいと思う。

 そのためには「心のストレッチ」をして、先入観や固定観念で硬くなった心をほぐしていく作業が必要になるのだろう。

 ぼくの場合、本を読んでいる時は童心に帰る。

 おそらく、本を読んでいるときが「本来の自分」に最も近いのではないかと思う。

 その自分が「基準」になるわけだ。

 一方、感情的に昂って小さなプライドを守ろうとする自分はあきらかに後天的に身につけたものだ。

 心を柔らかく保ちたいなら、自分のなかの「怒り」や「憎しみ」と向き合わなければならないということ。

 生まれたときの裸の自分は、怒ることはあっても根に持ちはしなかったはず。それが、いつまでもひとつのことで延々と怒っているのなら、心のどこかが凝っている証拠だ。

 その凝りはどうにかしてほぐさなければならない。

 おそらく、自分なりの「正義」を重んじ、それが叶わないとなると烈火のように怒るぼくは、思春期のあたりで生まれた人格だと思う。

 本来のぼくは、もっと自然体で、力が抜けているような気がするのだ。

 その人格が「基準」となる自分で、時々、マグマのように噴出する感情は、いずれも「心の凝り」から来ているものだと思っている。

 この「凝り」をどうほぐしたものか……。

 どこまでも柔らかく自然で変化を怖れない心を取り戻したい。