最近、Twitterもほとんどやっていないのですが、久々に面白いと思ったツイートがあったのでメモメモ。

おそ松さんをクソニートが酒飲んだりして暮らすクズアニメとして面白がってる僕は、ホモ的に熱狂する腐女子もそれを弾圧するアンチおそ松腐派も「マナーを守ろう」と訴える学級委員長派も全部ピンとこなくて「みんな一体誰と戦ってるんだ」ってなる。「普通に面白い」派もっとがんばってくれ。


 何が面白いって、期せずして「普通」という見方が相対化されているように思えるところですね。

 この発言者さんはおそらく『おそ松さん』というアニメを「クソニートが酒飲んだりして暮らすクズアニメとして面白が」ることが最も「普通」の見方だと考えているのでしょう。

 しかし、現実に目立っているのは「ホモ的に熱狂する腐女子」や「それを弾圧するアンチおそ松腐派」だったりするわけで、最終的には「「普通に面白い」派もっとがんばってくれ。」というなんとなく矛盾した発言を行うことになっている。

 これはちょっと面白い事態だな、と思うわけです。

 わかるでしょうか。本来、「普通に面白い」という派閥は(その作品が面白いといえる出来なら)最も「普通」で、メジャーであるはずなのに現実には「もっとがんばってくれ」と言わなければならないほど少数派に見えている。そのギャップが非常に現代的だな、と感じるわけです。

 もちろん、じっさいにはサイレントマジョリティがたくさんいるのかもしれないけれど、いわゆる「腐女子的な見方」がメジャーになって来ると、こういうある種の逆転現象が起こることにもなるのだな、と感慨深いですね。

 そしてそれはひょっとしたらだれにとっても望むべきでない展開なのかもしれず、ぼくもまた「「普通に面白い」派もっとがんばってくれ」と思わないこともありません。

 しかし、その一方で、ここまでいろいろな見方が氾濫して来ると、いったい何が正しい、正統な見方で、何がマイナーな見方なのか、はっきりと確定させることは容易ではありません。

 『おそ松さん』を見て「ホモ的に熱狂する」ことは異端の、奇妙な見方だとだれに断言できるでしょう?

 それに比べて「クソニートが酒飲んだりして暮らすクズアニメとして面白が」ることが「普通」だとみなすことにどれほどの正当性があるでしょうか?

 まあ、「腐女子」の人たちはその存在を隠したがる傾向があるので(現実にはまったく隠れられていないことも多いわけですが)、「自分たちの見方こそが普通だ!」とは主張しないと思われますが、それにしても見方の多様化は「普通」という概念を歪ませているのだな、と思わせられるのでした。

 いい方を変えるなら、