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海燕さん、こんばんは。
今回は原発を例に挙げられていますが、これに限らず、議論の中には実は「正しさ」を真に主張していない場合があります。
それは、「利害」がある場合です。ある主張を「正しい」と思うから行うのではない。得をしたい、もしくは損をしないようにするために「正しい」と主張する。
または、自分が支持する人物・団体を有利にするために、彼らにとって都合のいいことを「正しい」と主張する。これは記事中の「そうだと信じたい心」である可能性があります。
いずれも、ほんとうの「正しさ」や「真実」などは、二の次なのです。
一見、「絶対正義vs絶対正義」と見えるものも、実際には多くが利害が絡んでいます。利害が原因で議論が不毛になるのを解消するには、みんなに「公共心」を持ってもらわないといけませんね。極めて難しいことかもしれませんが。
一方で、純粋に自分が正しいと考えた者同士が、不毛な議論をしている場合もあるでしょう。その時は、記事中にあるように「絶対」を捨てることが必要になるのでしょうね。
個人的な感想、意見になってしまうのですが日本で行われてるおおよその論議は
ほぼ、公憤じゃなく私憤、権力争いの一環、つまり相手を屈服させて己の力を証明したいだけにしか見えません
自分の意見が正しい、だからあいつも修正、訂正してやろうと自己的な正義の押し付け合いは見ていて苦痛です
たとえ人の意見がどんなに違おうとも自分は正しいと思う。
そこで完結し、その人の意見を聞いて納得できたなら自分の意見を取り下げる、謝罪の言葉を告げる
争いから降りる。論議は自分とは違う意見の擦り合わせであって、競争、争いの場ではないのでしょうが
正統性に基づいた理性と感情は制御が難しいということなのでしょうかね・・・。