同居人の美少女がレズビアンだった件。 (コミックエッセイの森)

 『同居人の美少女がレズビアンだった件』。

 フィクションとしか思えないようなタイトルですが、これは(いくらかデフォルメされているところがあるらしいとはいえ)ノンフィクションの漫画で、そしてここでいう「同居人の美少女」とは『百合のリアル』の著者である牧村朝子さんのことです。

 この本はその「レズビアンの美少女」を主人公に、彼女の恋の顛末を語った一冊。

 波乱万丈、痛快無類、とても面白い本なので、『百合のリアル』と合わせてオススメです。

 『百合のリアル』と違ってこちらはKindleで買えるのもありがたい。

 まあ、そういうわけで、「レズビアン」に興味がある人にもない人にも、オススメの一冊なのでした。

 このタイトルでレズビアン「だった」と書かれている通り、牧村さんは最終的には「レズビアン」という「アイデンティティ」を放棄してしまいます。

 「自分は自分」。それで十分だと考えるようになるのですね。

 これは社会的にマイノリティに置かれた人がいかにして自分に誇りを持ち、なおかつその誇りすら捨て去るか、というプロセスとして、きわめて興味深いものに思えます。

 社会的に弱者である人間は、社会から身を守るためになんらかの「アイデンティティ」を必要とします。

 それは社会が押しつけて来る「カテゴリ」とは別物で、当事者が自ら選択する「プライド」です。

 「ホモ」と呼ばれていた人たちが「ゲイ」と名乗ったのはその典型的な一例でしょう。

 そして、その「プライド」はしばしば「少数派である自分たちこそほんとうに素晴らしい存在なのだ」という域に達します。

 たとえば「ブラック・イズ・ビューティフル」といった言葉がありますね。

 そういった言葉は社会において弱者の立場に立たされてきた人々がどうしても持たざるを得なかった「プライド」であるに違いありません。

 しかし、社会が変わって行くとなると、必ずしもいつまでもその「プライド」を保ちつづける必要があるわけではありません。

 「自分たちこそがほんとうは優れている」という「プライド」の論理は、逆説的に自分たちを孤立させているわけで、歴史的な過程のなかで必要とされる一プロセスではあるにせよ、どこかの時点で捨て去ることもまた必要なのだと思います。

 これ、「オタクは知的エリートである」といった理屈もまったく同じであることがわかるでしょうか?