幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 日本と韓国の双方でミリオンセラーを記録した名著『嫌われる勇気』の続編『幸せになる勇気』を読みました。

 前作はぼくにとって十年に一度ともいうべき傑作だったわけですが、それに続く本作の出来はどうか?

 よくあるベストセラーの二番煎じに過ぎないのか? ありふれた商業主義の果実でしかないのでは?

 否、否、否。本作も前作に引き続いてきわめて刺激的な議論が続き、まさに「勇気の二部作」完結編の風格を示しています。

 というより、前作と合わせて二冊で一冊の作品と考えたほうがいいでしょう。

 前作を読んで消化不良だった人も、本作を読む価値はあります。

 なぜなら、この本では『嫌われる勇気』を読んだひとが疑問に思うかもしれないところが逐一解説されているからです。

 前作で友情を誓って別れた「青年」と「哲人」はこの本で再開し、再び議論を開始します。

 はたして目くるめくロジックのたどり着くところはどこなのか? 前作を味わえた人なら本書も楽しめること間違いなしです。

 そもそも『嫌われる勇気』には、日本ではもうひとつ知名度が低いアドラー心理学の入門書という側面がありました。

 時代に100年先んじているという「自己啓発の源流・アドラーの教え」を、アドラー研究者である「哲人」とかれの思想に疑問を抱く「青年」の対決という形で描くという卓抜なアイディアは、いま考えても素晴らしい。

 結果としてはアドラーの常識を超越した思想を伝えるためにこれ以上の形式はなかったといっていいでしょう。

 「結果としては」と書くのは、いままでの出版の常識ではこのような形式は想定されていないから。

 小説でもなく、物語でも、実録でもなく、「対話篇」ともいうべきこの独特のスタイルは、一切の出版上の思い込みを排したところで生まれたのだと思います。まさにアドラーの思想そのもののように。

 それでは、『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』全二冊を通じて語られたアドラーの教えとはどんなものなのか。

 それは「心理学」と名付けられているものの、ギリシャ哲学の正嫡ともいうべき剛健な思想です。

 常識を疑い、あたりまえのことに逆らうきわめてオリジナリティの高い考え方。

 世界的にはフロイトやユングと並び称されているというアドラーの哲学は、『嫌われる勇気』のなかできわめて明快に解説されていました。

 ひとは他者から嫌われる勇気を持つことによって自立することができるということ。

 自分と他人の「課題」は分離しなければならないということ。

 そして、人間は過去のトラウマに縛られるような弱い存在ではないということ。

 いずれも現代の一般知識からすれば非常識ともいうべき発想です。

 しかし、それらすべては「哲人」その人によってとてもわかりやすく解説されたのでした。

 そして、「哲人」を論破するべくかれの家を訪れた「青年」も納得して去って行ったのです。

 ところが、