2010/07/31

8:12 am

昨日、「黙阿弥オペラ」を紀伊国屋サザンシアターで観て来た。
井上ひさしさんの戯曲の舞台にしてはどこか腑に落ちない気分が残ったように思う。
もちろん水準は遥かに超える出来にはできている、でもどこか不足している。
何が不足したか、考えた。
一つはこの舞台の本質のところにある。
タイトルロールなのに黙阿弥は、自分を語らず常に他の登場人物を見ている、
それを書き記す、客観の立場を崩さない。
なので、物語の始まりから終わった時に黙阿弥の中で何が動いたかが分からない、
黙阿弥の内面が出ていないのだ。
井上さんは大作家なのでそんなことは百も承知であえてそういう書き方をしたのだろうと思う。
なんでだろう、そこは分からない。

仮説を立ててみた。
その1、井上さんが黙阿弥を自分と同業の戯作者ととらえ、戯作者の内面は明かさない、
黙阿弥の内面を描くことは自分の内面をさらすことになり、
それを避けた、そんな恥ずかしいことはしない、だから描かなかった。
その2、唯一黙阿弥が主張することがある。
国のためにアメリカ元大統領の面前で上演されるオペラの戯曲を書いてくれと頼まれ、
書かないと宣言する場面だ、
観客はどこにいる、観客が望むものを自分は書く、
日常の生活の中からコツコツとお金をためようやくたまったお金でお芝居を見に来る、
芝居を「非日常のハレ」の場ととらえ、「日常生活=ケ」の積み重ねの結果として芝居があるというくだりだ。
市井の市民、その人たちの生活があるから自分の芝居の存在する意味があると主張する。
まさに井上さんが言いたかったことだろう。
井上さんは、創作とは何か・創作者の人物の何らかの悩み・創作を続けることでの人間的成長とか、
普通に1本の芝居を書くときにそれらが持つ主題をこの芝居に持たせてもよかったはずなのに、
そうはしなかった。

一人の人間の内面の葛藤よりも、井上さんにとっての主題、
戯作とは何か、を言いたかった芝居としてこの戯曲を書いたのだろう。
だとしたら、それはよく分かる。
でもそのことを言うための芝居としては3時間半は長すぎるのではないかと思った。
いずれの仮説もスパッと割り切れる仮説とは言い難く、もやもやが残る。

もやもやの二つ目は、
オペラ歌手として自立し始めた芸妓さん役の女性の歌が下手で説得力がまるでないことだ。
井上さんの芝居にはよく歌が出てくる。
その歌は俳優が歌う歌でも、みなさんとてもきちんとしとやかに晴れやかに歌う、
そうした歌が芝居をとても深く彩る。
それなのに、今回の最も歌が必要な肝心かなめのオペラ歌手、
オペラに憧れオペラ歌手を目指している人間が歌う歌がひどかった。
クライマックスと言ってもいい場面の歌でがっくりくる。
どうしてキャスティングを間違えたのだろう。
あえて下手な人をキャスティングしたのかと勘繰ってみたけど、どう考えてもその説は成り立たない。

もうひとのもやもやは、藤原達也さんの芝居、やりすぎているのだ。
この人の演技力は素晴らしい、セリフもよく回るし、タイミングもピタッとはまる、体のキレも抜群だ、
からだのどの部位でも思うように自由自在に動かすことができる、
目に力もある。
追いかけて見ていると楽しい、一見は、だ。
でも今回の役どころ、車夫から這い上がったべらんめえの銀行家役には違和感があった。
とことん演技をしてしまっている、演技が目につく。そぎ落とすという作業をしていない。
どう見てもふりをしているようにしか見えない。
なんでだろう、たぶん脚本が要請する役どころと、元来、彼が持っているキャラクターが違うのだろう。
江戸時代の車夫があんなに背の高いすっきりした風情の人間であるわけがない。
普通にイメージすれば、ずんぐりむっくりだみ声の見るからに雲助と言われるたたずまいだろう。
自分にないイメージの役がきてしまった、
さあ大変、持てる演技力を総動員して作り込まなければならない、
どんなに演技してもしすぎることは無い、
何が何でも車夫を自分の手の内に入れてやる、
その意気込みは分かるけど、演技力があるだけ始末が悪い、
それは演技の基本を忘れてしまってますよ、
人間が自然に見えなくなってしまってますよ、と言っておきたい。

パンフレットに井上さんがこの芝居を藤原くんにやらせたい、と言っていたという記事があり、
主催者はこの言葉を藤原さんみたいなすばらしい役者にやらせたがっていた、
という誉め言葉のエピソードとしてとらえているのだが、
僕には井上さんが、藤原さんにこの芝居ができるようになってほしい、
藤原さんの才能を認めたうえで、もっと素直に芝居できるようになろうよ、
成長のためのステップを踏ませようとしたのだろう、としか思えないのだが。
聞いてみたい質問の答えは、もう聞けない。