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齋藤彰俊
インタビュー第3弾は「新日本プロレス道場で過ごした日々」」です!(聞き手/ジャン斉藤)



①齋藤藤彰俊インタビュー「名古屋の街の風紀を正していた高校時代」


――齋藤彰俊選手が苦楽をともにされた青柳館長がお亡くなりになりました。

齋藤 館長との思い出はたくさんありますね……もう語り尽くせないです。最後に会ったのはノアの名古屋大会ですから、半年以上前だとは思いますけど。ただ、メールでは近況報告はしてましたので。亡くなったのは急な話というか、前日は普通に空手の指導をされていたみたいで、皆さんビックリしてる感じですね。入院されて闘病という感じはなかったもんですから。

――青柳館長と最後に一緒にリングに上がった試合は覚えていらっしゃいます?

齋藤 自分の30周年記念試合を名古屋国際会議場でやったときですね( 2020年2月24日)。そのあと館長はしばらくリングから離れていたとは思うんですけども。

――館長と彰俊さんが活躍しなかったら、格闘家がプロレスにリングに上がる流れはできてなかったんじゃないかって思ってるんです。

齋藤 そうですよね。たとえ上がっても、単発、1回限りだったかもしれないですね。

――彰俊さんはW★INGで名を挙げていたとはいえ、空手家が新日本プロレスでやっていくことは、ものすごく大変だったと思うんですけども。

齋藤 館長は他人とすぐ溶け込むようなタイプなんですけど、自分はなかなか……最初はダメでしたね。自分の場合はどこかちょっと一歩引いてる。本当にわかり合えたりすると、そんなことはないんですけど。

――青柳館長からプロレスに溶け込むうえで、何かアドバイスされたことってあるんですか。

齋藤 プロレスのアドバイスは、あんまりなかったかもしれない。自分が新日本でやりだしたのは、新日本に殴り込みをかけてからで。そうすると反選手会同盟(後の平成維震軍)があって。プロレスのアドバイスは他のレスラーの方が多かったですよね。

――たしかに経験豊富なレスラーばかりですもんね。

齋藤 越中(詩郎)さんや木村健悟さんとか。一番教えていただいたのはカブキ師匠です。あとこれは書いていいのかな……。誠心会館としての抗争が終わったあたりから、新日本との合同練習に出たりはしてたんですけど。

――新日本本隊の合同練習に?

齋藤 はい。シリーズが始まる1~2週間前とか。午前中に本隊の合同練習に出て、午後からは平成維震軍の合同練習に出て。

――本隊と平成維震軍は抗争していたから、彰俊選手選手が本隊の練習に参加していて寮に住んでいたことを表には出せなかった。でも、いまだから書けないんですかね。もう時効というか、野毛道場でちゃんと鍛えていたことが明かされる、すごくいい話だと思うんですけど!(笑)。

齋藤 そうなんですかね?

――いまだから載せたほうがいいと思います! 青柳館長が当時を振り返るインタビューを読むと、青柳館長が維震軍から離れたあと、齋藤選手が野毛の寮に入れられていたことをおっしゃっていたので……そのへんに興味があったんですよ。

齋藤 自分は新日本の寮に入ってました。シリーズ前は新日本の寮で寝泊まりして、合同練習に参加して。

――維震軍のメンバーだったから、立場的にいづらくなかったですか?

齋藤 なかなか溶け込めなかったですねぇ。そもそも自分が殴り込みをかけた頃は、選手会のテーマが「齋藤を潰せ!」だったので。

――一線を越えた抗争を繰り広げていたわけですもんね。

齋藤 はい。ですから「お疲れさまです!」って笑顔で挨拶するんですけど、全然溶け込むことはなかったです。

――何かしら、しこりは残っていたという。

齋藤 やっぱり残ってますねぇ。顔見知りになっても向こうは向こうで「ナメるなよ」っていう感情は絶対にあったと思うんですよね。

――そもそも当時の新日本プロレスって、フリーの選手に対する敵愾心は強かったですよね。

齋藤 すごかったです。試合中、意識をなくした選手を見て、ニヤッと笑うような時代でしたから。新弟子というか、ヤングライオンたちも「途中から来やがって……」みたいな感情はあったとは思いますし。自分が入ったのが20代半ばという年齢で、新弟子的な仕事はやってなかったので、そのぶんジェラシーもあったんじゃないかなと。

――寮では1人部屋だったんですか。

齋藤 違います。2人部屋とか3人部屋だったりとか。

――平成維震軍である程度の位置にいたわけなのに、寮の環境に飛び込んだのは彰俊さんの意思もあったんですか?

齋藤 新日本からこれまでどおりシリーズ中はホテル暮らしか、「選べ」とは言われたんですけど。でも、練習がすぐにできますし、道場でいいですと。

――厳しいほうを選んだんですね。

齋藤 そうですね。いつも自分で「バカだな」と思うんですけど、自ら背中を押すタイプなんです。「言っちゃいけない」と思いながらも言ってしまうこともあります。いまの自分だったら、道場暮らしは選びません(笑)。

――ハハハハハハ! それで本隊と維震軍の合同練習を掛け持ちするって、めちゃくちゃ体力ありますね。

齋藤 やっぱり「しっかりやらないと!」って思いが強かったんでしょうね。そこで身につけたものも大きかったです。とくに精神的なことは。やっぱりキツかったですから(しみじみと)。

――だんだん受け入れられてる感じってありました?

齋藤 本当に受け入れられたと思ったのは、新日本を辞めたときですかね。

――最後の最後で。

齋藤 自分が辞めたあとに「彰俊がいなくなったから、維震軍を続ける意義はないだろう」みたいな感じで解散したんです。そのときに、ちょっと受け入れられたかなと。あと佐々木健介さんに受け入れられたのは、ノアに上がってシングルで当たるようになってからだと思います。レスラーとして身体も大きくなって、戦うようになってからですね。

――ハードルは高いんですねぇ。寮で仲が良かったのは誰なんですか。

齋藤 当時はケンドー・カシン選手と仲良かったです。あと永田裕志選手。中西(学)選手とも一緒に飲みに行ったりはしましたけど。おぼえてるのはカシン選手と近くのメキシコ料理屋かなんかで飲んで。その帰りにカシン選手がずっと耳元で「中西を○しましょう」と言い続けて(笑)。

――酔ってるとはいえ物騒すぎますよ!(笑)。

齋藤 そのまま寮の中西選手の部屋になだれ込んで「中西、飲みに行くぞ!」と。金属バットでベッドをぶっ叩いて起こしました(笑)。

――めちゃくちゃですよ!

齋藤 後日、馳(浩)さんから「そういうことはリングでやれ」って怒られましたけど。

――リングでも金属バットはダメですよ(笑)。カシンさんの中西学嫌いって、ネタなんだか、本気なんだか、わかんないですよね。
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