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エネルギーフォーラム コラム 3月12日号
元首相二人が都知事選で残したものは? (2014/02/24)
都知事選が終わった。ひょっとしたら二人の元首相にしてやられるかとも思ったが選挙戦途中の世論調査が示唆していた結果に落ち着いた。これにはさまざまな分析があるので屋上屋を重ねることになるもしれないが、原子力は必要という立場にたつ以上、この異常事態を自分なりに考えておく必要があると思えた。
実は細川元首相時代のエネルギー政策がどうであったかはほとんど記憶にない。短期だったせいだろう。逆に小泉時代はさまざまある。しかし、首相マタ―というような大テーマはなかった。少し説明が必要になるが、小泉元首相は極端な話、エネルギー問題には一切の関心がなかったらしいのだ。これはある問題で官邸で小泉元首相に説明した時の状況を当時の資源エネルギー庁幹部から直接聞いた。当時のエネルギー問題は自由化問題のからみもあり、やや迷走気味だったのだが、国民的関心ということでは静かな時代だったのだろう。憶測すれば、エネルギー問題など眼中になかったに違いない。その元幹部曰く、「何度か説明する機会があったのだが、一切聞いてもらったという気がしなかった。一切ですよ。まったくの形式。面倒がなく助かったと思う反面。寂しくも思った」という。情景が思い浮かぶような気がする。小泉首相誕生の際に「とんでもないことになるよ」といった政治部の同僚記者がいたが、あの郵政民営化の一点集中。エネルギー問題などそれこそ100%関心なしだったとして何の不思議もないようだ。
それがどうしたことか、今回の選挙では、「私はこの厳しい挑戦を支持し、連日力の限りを尽くして応援しています。それは内閣総理大臣として原発を認めてきたことを深く反省し、このまま黙っていてはいけないと痛感するからです」という。言葉は恐ろしい。脱一点主義だ。反省すれば、それでいいのだから簡単だ。状況が変われば、やはり原発は必要だったとなるのだろう。無責任であっていいのだから。細川元首相にしたところで酷い。街頭演説で言葉を失い、「風力」を小泉元首相に教えてもらう始末である。テレビで見たのだが、なんとも。
二人の元首相が「脱」だか「反」だか知らないが原子力で一致して、劇場劇を見せてくれたわけだが、これでは百年の大計を持っての政策など出てくるはずはない。一時、エネルギー、特に原子力に関しては「ぶれない政策」が叫ばれ、一歩、踏み出したように思えた時もあったのだが、さて今後は。まだまだ危惧は消えない。二人が残したのは無用な混乱だった。元首相がとるべき行動だったろうか。新井 光雄 ジャーナリスト 元読売新聞・編集委員。 エネルギー問題を専門的に担当。 現在、地球産業文化研究所・理事 日本エネルギー経済研究所・特別研究員、総合資源エネルギー調査会・臨時委員、原子力委員会・専門委員 大正大学非常勤講師(エネルギー論)。 著書に 「エネルギーが危ない」(中央公論新社)など。 東大文卒。栃木県日光市生まれ。 -
エネルギーフォーラム コラム 2月19日号
エネルギーの分野に限ったことではないが、世の中には一見常識的に正しいとされていることが、視点を変えたり、タイム・スパンを変えたりした場合に、必ずしもそうではなくなるパラドックスが往々にして存在する。エネルギー分野では、まず、既にこの欄でも若干触れたが、地表面積当たりのエネルギー密度が非常に低い、フローの太陽光を直接・間接に利用する再生可能エネルギーは、化石燃料や原発の何割かを代替するほど普及させれば、必然的に直接的な生態系大破壊をもたらし、全くグリーンどころではなくなるという重大な「環境負荷のパラドックス」がある。しかし、今回はこの話ではない。エネルギーのパラドックス (2014/02/17)
昔から知られているのが、「ジェボンズのパラドックス」である。これは、省エネを鋭意進めると、使用側のエネルギー・コストも同時に下がるので、中長期的にはかえってエネルギー需要全体が増加するというパラドックスである。例えば、燃費効率を改善したボーイング787のような新世代航空機が普及すると、その運航コスト低下につれて格安航空会社が繁盛するようになって、それまで飛行機に乗らなかった層が大勢乗客になり、かえって航空燃料需要が増加する、と言うようなことだ。このパラドックスは、これまでの世界の歴史では完全に該当した。エコポイントなどによる省エネタイプ製品への買い替え促進策も、このパラドックスを内包しているだけでなく、そもそも世の中の最大のエネルギー需要分野は、モノの製造とそれにかかわる輸送なので、既存機器の寿命前に新製品に買い替えれば、社会全体として省エネにならないという「買い替えのパラドックス」もある。
さらに、国全体のエネルギー原単位を改善しようとしてソフト経済化を追求すると、重厚長大産業は、安価だが環境負荷が大きい石炭依存の途上国に移転して、地球全体としてかえって温暖化効果ガスの排出量が増える可能性という「オフショア・ウェッジのパラドックス」も存在する。このように、エネルギー問題をめぐっては、目先やイメージ的には良さそうなオプションであっても、中長期的、ないし社会全体としては、逆の結果になったり、無効化される可能性が常にある。エネルギーというのは、社会の根底を支える事柄であり、常に長期・複雑な性格を持つので、眼光紙背に徹する洞察力が必要なだけでなく、結果が狙い通りにならないかもしれないとの謙虚さが、エネルギーの問題を考えるには必要だろう。
石井 彰 エネルギー・環境問題研究所代表1950年生まれ。エネルギー・環境問題研究所代表。上智大卒。日本経済新聞記者を経て、石油公団に入団。ハーバード大学国際問題研究所客員、パリ事務所所長などを歴任し、現在石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)上席客員研究員。著書に「エネルギー論争の盲点:天然ガスと分散型が日本を救う」「石油資源の行方」など -
エネルギーフォーラム コラム 11月17日号
興味深かった泉田知事論 (2013/11/05)
公的な立場にある人間が私的感情に近い表現をとることがあり、困惑する。ある雑誌の記事に触発されて、このことを考えてみたくなった。月刊エネルギーフォーラム10月号の『東電の死命を制す「泉田裕彦」というカオス』という記事だ。記事といえば当方も50年弱、新聞記者、退職後はジャーナリストなどと名乗って記事めいたことを書いてきている。
しかし、案外に人を書いていない。その機会が少ない。初めてということで記憶をたどると地方支局時代の街の名医とのインタビュー対談だったか。だがこれは県版。全国版では石油危機直後の通産省新次官。「ノ―トリアス・ミティ」を「なうての通産省」と訳したのを褒められた。もう死語だろう。しかし、新聞が人物を取り上げる場合、社会面ならともかく、他の面では原則、褒め記事・原稿である。通産次官も新任だから基本は同じだった。「なうて」としたところが若干多少のサビか。新聞の限界だろう。
そこでこの「泉田新潟県知事」の記事を読むと専門誌という自由さはあるものの、かなり踏み込んだ内容と思えた。面白く読めたということである。関心があったのは、知事の権力という側面である。余り意識されないが、知事の権限は巨大である。政府と市町村自治体の間にあって、さまざまな行動をとりうる絶妙な立場にたつ。これを知ったのは、記者なりたてに赴任した地方でその時の知事の様々な横暴に近い権力行使を知ったからだ。司法が一部動きだしたほどだった。
で記事の泉田論が興味深いものとなる。泉田氏については東電に対し「安全と金。どちらが大事か」と迫り、「ウソをつく会社」と断罪した。こうした言葉は普通に人がつかえない。なぜか、簡単だ。そのまま自分に跳ね返ってくるからで、それに気がつかないのがこの人物の特徴なのだろうことを記事は示してくれていた。つまり反論の出来ないような発言しかしない、独特な立場をとっていることを分からしめてくれている。
報道が人間像を取り上げることにはむろんリスクもある。偏りがちという批判が必ずでるからであるが、一方で見てくれの公正報道も欺瞞(ぎまん)なのかもしれない。週刊誌がそこを突く。むろん、それは面白おかしくだが、その中間の冷静な人物評記事はもっとあっていいはずだ。フォーラム記事はサイド面もしっかり取材できていて一味違う。公式でない泉田氏の一面を書き上げてあり、新潟県民も知ること多かったに違いない。一読に値した。新井 光雄 ジャーナリスト 元読売新聞・編集委員。 エネルギー問題を専門的に担当。 現在、地球産業文化研究所・理事 日本エネルギー経済研究所・特別研究員、総合資源エネルギー調査会・臨時委員、原子力委員会・専門委員 大正大学非常勤講師(エネルギー論)。 著書に 「エネルギーが危ない」(中央公論新社)など。 東大文卒。栃木県日光市生まれ。
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