「知識」のプライオリティは下がっている
町山智浩さんのブログを読んでいたら、興味深い一節に突き当たった。
オイラはものをあまりよく知らない。
昔はそれを恥ずかしく思っていたし、よくバカにされてきた。
でも、今はなんとも思わない。
なぜなら、ネットの時代、知識は誰でも簡単に拾えるようになったので、知識そのものに価値がなくなったからだ。
いや、それは言い方が違うな。
本当に物知りなのか、ネットで拾っただけの知識なのか見分けることが困難になったからだ。ちょこちょこっと検索して、それを散りばめれば物知りに見える文章は作れる。
なるほどこれは確かにそうかも知れない。インターネットやIT機器の発達で、情報というものはこれまでと比べて格段と調べやすく、また引き出しやすい環境になった。
だから、以前のようにそれを「知識」として脳に蓄えておくことの必要性は少なくなった。膨大な知識を記憶しておくことは、今はあまり意味のないことになった。それをするくらいなら、脳はまたもっと別の機能に使った方が効率的だろう。
但し、知性のなさは露見する
但し、それによって「物知りに見える文章」が書けるようになったかというと、必ずしもそうではないと思う。
文章というのは、書かれている内容だけでなく、それ以外のさまざまな構成要素からも成っているので、例え情報を検索したりそれを流用するのが容易になっても、「物知りに見える文章」を作るのにはやっぱりまだまだ難しいところがあると思う。その人に本当の知性がなければ、それは文章を読めばすぐに露見してしまうものだと思っている。「本当に物知りなのか、ネットで拾っただけの知識なのか見分けること」は、まだまだたやすいと考えている。
知性のある文章の見分け方
そこでここでは、「どうすれば知性のある文章とない文章を見分けられるか」ということについて考えてみたい。
そこにどんなことが書かれていようとも、知性のなさというのは文章のそこここに表れてしまう。それを避けることは、知性のない人には難しい。
但し、以下に挙げるような点に気をつけられれば、知性のない文章になることは避けられるかも知れない。それは言い換えるなら、以下のような点に気をつけられているかどうかということが、すなわち知性というものなのかも知れない。