近藤日出造は、1932年に新漫画派集団を作って波に乗り、1933年から読売新聞の嘱託となって売れ始めた。

しかしこの頃から段々と戦争の影が忍び寄る。近藤は政治家や役人が嫌いだったから、なるべく距離を取ろうとしていた。戦争に対しても、なるべく中立な立場を取ろうとしていた。

ただ、持ち前の風刺精神、ナンセンス精神は旺盛だったから、中国戦争初期にはこれを皮肉り、あざ笑う漫画をいくつか描いた。すると、2回ほど憲兵に捕まってしまい、手ひどい取り調べを受けた。近藤の皮肉が不敬罪に当たるというわけだ。

しかし近藤は、二度ともなんとか起訴を免れた。理由は、憲兵に土下座して謝ったからだ。無駄な抵抗は一切しなかった。

近藤は、役人が好きではなかったが、抵抗するプロレタリア勢力とも一線を引いていた。自分はあくまでも一介の漫画家であり、運動家ではないという矜持を強く持っていたのだ。だから、国家とは距離を取りつつも