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野球道とは負けることと見つけたり:その53(1,715字)
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ハックルベリーに会いに行く
2週間前
1974年春の甲子園、池田高校はベストエイトがぶつかり合う準々決勝に進んだ。対戦相手は中国地方代表、岡山の倉敷工である。この試合は、池田の池田らしさ、あるいは監督の蔦文也らしさが全開の試合となった。試合は投手戦で推移した。池田の先発山本智久は相変わらず好調で、倉敷工の強力打線をほとんど寄せつけない。...
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野球道とは負けることと見つけたり:その52(1,900字)
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ハックルベリーに会いに行く
3週間前
池田高校は、開会式直後の函館有斗との一回戦で、1-1と同点の三回裏、ツーアウトランナー3塁から、3塁ランナー雲本博のホームスチールを成功させる。このホームスチールは投球と同時にではなく、投球間に相手の虚を突いて走ったものだった。ピッチャーは慌ててホームに送球したが、ボールが大きく逸れてセーフとなった。...
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野球道とは負けることと見つけたり:その51(1,918字)
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ハックルベリーに会いに行く
4週間前
1974年春の甲子園、函館有斗との一回戦、後攻の池田高校は1回表に1点を先制されるが、その裏すぐさま1点を取り返した。そして同点の3回裏。先頭の雲本が二塁打で出塁すると、バントで三塁に送った後、三番が凡退して二死三塁の場面。バッターは四番でキャプテンの上浦秀明だった。池田高校は、さわやか「イレブン」とい...
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野球道とは負けることと見つけたり:その50(1,844字)
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1ヶ月前
池田高校野球部員は、監督である蔦文也のことをなめてはいたが軽蔑していたわけではない。ある面では尊敬してもいた。それはあまりにも野球バカだからだ。野球の好きさでは誰も敵わない。練習も一番先に来て一番後に帰る。だから、野球部に残った以上は、もう文也についていくしかなかった。試合でもそうで、冴えている...
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野球道とは負けることと見つけたり:その49(2,039字)
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1ヶ月前
さわやかイレブンはいかにして革命集団となったのか?その誕生の背景には、蔦文也監督と池田高校野球部選手たちとの、それ以前の高校野球界にはなかった新たな「師弟関係」にある。また、それが生み出した独特の「練習環境」にある。文也は、ここまでの20年の監督生活の中で、生徒たちとの間に一つの特殊な「関係性」と...
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野球道とは負けることと見つけたり:その48(1,804字)
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1ヶ月前
今、厚切りジェイソンのギャグのように「Why Japanese?」という現象が起きている。言うまでもなくMLBにおいてだ。日本人がMLBを席巻している。大谷翔平だけではない。他の投手も野手も活躍している。それも、大谷をはじめ皆が「イノベーティブ」な活躍をしている。どの選手も、他の国にはいないような新しい独自のスタ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その47(1,852字)
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1ヶ月前
1973年秋期四国大会。愛媛県・松山球場で行われた一回戦第一試合は、優勝候補の高知高校と、どん尻候補の池田の対戦だった。先攻の池田は一回表、先頭バッターの雲本博が出塁すると、サードまで塁を進めた。その後ツーアウトとなるのだが、ここでなんとホームスチールを敢行する。結果はアウトだったが、池田の積極的な...
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野球道とは負けることと見つけたり:その46(1,841字)
コメ1
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1ヶ月前
蔦文也の監督人生には幾度となく「チビッコ」が現れる。すなわち背の低い選手である。その選手が、池田高校を助けるのだ。それは、池田高校にはそもそもチビッコが多かったということがある。池田高校の西側には勾配の険しい山間地帯が広がっているが、そこで育った子供たちは、昭和の後半になっても背の低い子が多かっ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その45(1,827字)
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2ヶ月前
1973年の秋季四国大会一回戦、池田は優勝候補筆頭の高知高校に2-1と競り勝つ。この試合のハイライトは、三回表の池田の攻撃だった。池田高校は一番雲本博からの攻撃だった。この雲本は、伸長が160センチそこそこで、二番の泉岡文教と合わせて「チビッココンビ」と呼ばれていた。当時は新聞にもそう書かれているのだ。そ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その44(1,735字)
コメ2
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2ヶ月前
1973年9月、徳島県の秋季大会で、池田高校は決勝に進む。そこで優勝候補筆頭の徳島商業に2対6で敗れる。点差以上の完敗だった。しかしこの準優勝に、池田は大満足だった。なぜかというと、予想もしていなかった四国大会への出場権を手に入れられたからだ。秋期四国大会は、四国各県から優勝校と準優勝校の2校が出場でき...
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野球道とは負けることと見つけたり:その43(1,844字)
コメ0
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2ヶ月前
1973年の秋期大会のとき、池田高校にはまだ12人の生徒がいた。前回は11人と書いたがそれは誤りだった。2年生7人、一年生5人の12人で、三年生の1人が辞めるのは秋の大会の後であった。この秋の大会の直前に、しばらく部を無断欠席していたキャッチャーの野木正治が帰ってきたこともあって、チームの雰囲気は盛り上がって...
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野球道とは負けることと見つけたり:その42(1,977字)
コメ0
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2ヶ月前
1971年、蔦文也監督率いる池田高校野球部は夏の甲子園に初出場し、一回戦を見事勝ち抜く。その姿を見ていた当時徳島県に住んでいた中学三年生の野球少年たちが、池田の大ファンになり、1972年に入学してくる。入学の時点で、それは14人いた。しかし夏までに、文也の練習――というよりは考え方についていけなかった7人が辞...
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野球道とは負けることと見つけたり:その41(2,081字)
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3ヶ月前
甲子園に初出場して以降、文也は部員たちに「野球に対する姿勢」というものをこれまで以上に求めるようになった。その姿勢とは、野球に対する「敬虔さ」だ。野球を武道のような「道」としてとらえ、これに心身を捧げるという謙譲の気持ちである。いやそれは、「道」というより一つの宗教に近かった。野球を神聖視し、そ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その40(1,756字)
コメ0
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3ヶ月前
池田高校野球部は、1971年夏、甲子園に初出場する。これは三年計画で育て上げた生徒たちの三年目で、ここで負けたら後がないという文字通り背水の陣だった。本当に、池田高校にとってはここが最大の運命の分かれ道だったのだ。池田高校監督の蔦文也は、この生涯最大ともいえる賭けに勝った。だから、後の人生はちょっと...
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野球道とは負けることと見つけたり:その39(1,696字)
コメ0
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3ヶ月前
池田高校の蔦文也監督には、20年間にも及ぶ長い勝てない時代の中で培ってきた、ある独特の戦法がある。それは「三年計画」である。チームを毎年作るのではなく、三年間をかけて作るのだ。高校野球は、毎年選手が入れ替わる。だから、毎年チームを作り替えなければならない。これが高校野球の難しいところである。常勝チ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その38(1,682字)
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4ヶ月前
1971年夏、甲子園に初出場した池田高校は、初戦で西中国代表の島根県・浜田高校と対戦する。大会4日目、8月10日の第二試合だった。この試合、池田高校は先攻で、5-4と逃げ勝った。決勝点は、3-3と同点の7回表、二死満塁から押し出しで奪ったものだ。このとき、池田高校監督の蔦文也は打者に対して「押し出しを選べ」と指...
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野球道とは負けることと見つけたり:その37(1,580字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く
4ヶ月前
ここで、蔦文也率いる池田高校野球部が、1971年に甲子園に初出場してから1982年に初の全国制覇を成し遂げるまでの、12年間の甲子園での戦績を見てみたい。1971年夏1回戦 池田 5-4 浜田2回戦 池田 1-8 岐阜商1974年春1回戦 池田 4-2 函館有斗2回戦 池田 2-1 防府商準々決勝 池田 2-1 倉敷工準決勝 池田 2-0 和歌山工決勝 ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その36(1,749字)
コメ0
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4ヶ月前
池田高校野球部を率いた蔦文也が、監督として初めての甲子園出場を決めたのは1971年7月27日のことであった。後年、文也はこの日を「生涯最高の嬉しさだった」と述べている。それは、甲子園の優勝をもしのぐ嬉しさだった。裏を返せば、それだけ出られなかった20年の歳月が長かったということであろう。しかしこのとき、文...
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野球道とは負けることと見つけたり:その35(1,977字)
コメ0
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4ヶ月前
池田高校の六番打者、真鍋が弾き返したその打球は、ファーストの頭を越えてライト線のフェアゾーンに鋭くバウンドした。それを見た三塁ランナーがホームインし、この瞬間、池田高校の南四国大会初優勝と、同時に甲子園への初出場が決まった。蔦文也は、その光景をベンチで呆然と見つめていた。一瞬、状況が理解できなく...
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野球道とは負けることと見つけたり:その34(1,978字)
コメ0
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5ヶ月前
蔦文也は後年、甲子園初出場時の野球部部長だった元木宏について「足を向けて寝られん」と語っているが、それはけっしておべっかではなく、心からの本音だろう。文也を助けてくれた人物は何人もいるが、ある意味一番大きかったのが、実はこの元木だったのではないだろうか。文也には、元木についての忘れられない思い出...
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野球道とは負けることと見つけたり:その33(2,297字)
コメ1
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5ヶ月前
池田高校と徳島商業の甲子園出場をかけた南四国大会決勝は、4対4のまま延長戦に入った。そして延長10回の裏は、後攻である池田の攻撃だった。この回、先頭バッターがヒットと相手エラーでノーアウト二塁のチャンスになる。この場面、蔦文也なら100%バントのサインを出すところで、相手ベンチも当然そう思っていた。とこ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その32(1,995字)
コメ0
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5ヶ月前
1971年7月27日、徳島県営野球場。この日、このときが、蔦文也にとって運命の瞬間となった。池田高校ナインは、文也が采配を投げ出した途端、生き生きと躍動し始める。これは後年もずっと続く池田高校最大の個性である。そして人々が池田高校に惹かれる最大の魅力でもある。とにかく選手が光をまとったように輝き出すのだ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その31(1,688字)
コメ2
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5ヶ月前
このときの野球部部長元木宏は1936年生まれである。1923年生まれの文也より12歳下で、いうならば弟分だった。しかし文也によると、「勝負運がある人間」だった。麻雀をしていても、すぐに諦める文也と違って最後まで諦めない。そうして、最後の最後には勝利を手にする、そういうタイプだ。また周囲からの人望と地域との...
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野球道とは負けることと見つけたり:その30(1,756字)
コメ0
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5ヶ月前
徳島球場で行われた南四国大会の準決勝で、池田高校は土佐高校に2-1という息詰まる投手戦の末競り勝っている。打ったヒットは6本、打たせたヒットはわずか3本だった。そういう投手戦を演じたから、決勝戦も投手戦で勝つつもりだった。実は池田高校は、この頃はまだ当時の高校野球ではオーソドックスな「守って勝つ」とい...
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野球道とは負けることと見つけたり:その29(1,929字)
コメ0
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6ヶ月前
1971年の夏、池田高校は甲子園に初出場する。その前年の1970年夏、二年生主体のチームで徳島県大会を勝ち抜き、4回目の南四国大会出場を果たしている。そこでは残念ながら一回戦で負けてしまったが、一定の手応えはつかんでいた。しかし続く秋の大会の準決勝で、徳島商業に完敗。春の甲子園出場はならなかった。そして年...
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野球道とは負けることと見つけたり:その28(1,713字)
コメ0
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6ヶ月前
蔦文也は1923年(大正12年)8月28日の生まれである。大正末期だから物心ついたときは昭和不況が始まっていた。だから、親や周囲の大人たちはまだ大正デカダンスの雰囲気を残していたが、自分たちの世代は切羽詰まった中で育つこととなった。これは「親がバブル世代で子供がZ世代」の現代と似ているところがある。親はど...
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野球道とは負けることと見つけたり:その27(1,764字)
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6ヶ月前
蔦文也は「同志社で野球をやる」という、戦時中の日本でアメリカと戦争をすることから最も遠い場所にいた。同志社大学は新島襄が1875年に作った。新島はまだ江戸時代だった1864年に密出国してアメリカに渡り、そこでキリスト教の洗礼を受け、キリスト教の学校に通い、最後には宣教使になった。だからアメリカとの親和性...
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野球道とは負けることと見つけたり:その26(1,971字)
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ハックルベリーに会いに行く
7ヶ月前
蔦文也は1923年の生まれである。『二十四の瞳』に登場する子供たちが1921年(大正12年)の生まれで文也よりも2歳上。『この世界の片隅に』の主人公・浦野すずは1925年生まれの設定なので2歳下である。ちなみにぼくの母方の祖母は1923年生まれなので同い年だ。この世代は、青春の真っ只中に戦争がぶつかった。つまり最も...
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野球道とは負けることと見つけたり:その25(1,822字)
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7ヶ月前
蔦文也は池田町の出身ではあるが、実は徳島市内で生まれ育った。今の徳島大学の近くである。なぜかというと父親が徳島市内で教師をしていたからだ。文也が子供の頃は、後に文也が進学することになる徳島商業で教えていた。文也の父方の祖父母が池田町に住んでいた。蔦家は江戸時代から三代続いた刻み煙草の問屋だった。...
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野球道とは負けることと見つけたり:その24(1,756字)
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ハックルベリーに会いに行く
7ヶ月前
蔦文也は長い間勝てずにいたため練習後はさまざまな問題を起こすほど毎夜酔っ払っていたが、翌日の早朝には必ず起きて自転車で町内を巡るのが日課だった。町内を自転車で走る文也の姿を多くの人も認めている。それから徒歩で5分ほどの池高グラウンドに行って自分が整備する。文也はグラウンドを整備するのが好きだった。...
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野球道とは負けることと見つけたり:その23(1,635字)
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7ヶ月前
1971年、蔦文也は48歳になっていた。池田高校の野球部監督に就任してからちょうど20年目である。このときまでに何度となく「甲子園まであと一勝」のところに迫りながら、出場を果たすことができていなかった。おかげで、周囲からは常に「蔦文也厳戒論」がささやかれていた。それに加えて酒席のトラブルも多かった。文也...
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野球道とは負けることと見つけたり:その22(1,843字)
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ハックルベリーに会いに行く
8ヶ月前
1971年に、池田高校にある変化が訪れる。翌年から商業科が廃止され、普通科一本になることが決定したのだ。時代の変化で、商業科への入学希望者が減ったことと、普通科の需要が高まったことが理由だった。これが蔦文也に小さからぬ衝撃を与える。というのも、野球部員というのは商業科の生徒が多かったのだ。なぜなら、...
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野球道とは負けることと見つけたり:その21(1,686字)
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8ヶ月前
ここで、池田高校野球部の4人の歴代部長について見ていきたい。まず、黎明期に勤めたのが住吉部長。1955年、女生徒の髪を引っ張って退職しそうになったり、校長を池に投げ飛ばしたりしたときに、一緒に謝ってくれたのが彼だった。また1957年、南四国大会に初出場したとき、一緒に寄付金を集めてくれたのも彼だし、生徒に...
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野球道とは負けることと見つけたり:その20(1,879字)
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ハックルベリーに会いに行く
8ヶ月前
蔦文也は長い間甲子園に出られなかった。その中で、次第に自分はもちろん周囲にも、文也のある種の「限界」というものが見えてきた。それは精神的なもので、「諦めが早い」ということと「失敗を恐れる」ということであった。文也は、これまでの幾多の経験の中で、失敗は人間にとって必要不可欠なもので、それこそが人格...