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野球道とは負けることと見つけたり:その20(1,879字)
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ハックルベリーに会いに行く 2日前
蔦文也は長い間甲子園に出られなかった。その中で、次第に自分はもちろん周囲にも、文也のある種の「限界」というものが見えてきた。それは精神的なもので、「諦めが早い」ということと「失敗を恐れる」ということであった。文也は、これまでの幾多の経験の中で、失敗は人間にとって必要不可欠なもので、それこそが人格...
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野球道とは負けることと見つけたり:その19(1,809字)
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ハックルベリーに会いに行く 2週間前
蔦文也は20年間甲子園に出られなかった。そしてその間は揺れ続けていた。1960年から3年間、県予選を勝ち抜き、甲子園まであっと一勝、もしくは二勝という期間が続いた。この間に、池田町民の期待は一気に盛り上がる。時代はまさしく高度経済成長のど真ん中で、池田の町も好景気を謳歌していた。その波に後押しされ、町民...
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野球道とは負けることと見つけたり:その17(2,160字)
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ハックルベリーに会いに行く 4週間前
蔦文也は1952年から1971年まで、甲子園に出られなかった。年齢でいうと29歳から48歳である。丸々20年間、ずっと苦しんでいた。そうして50歳を目前に、とうとう念願が叶ったのだ。その間に時代もうつろった。1952年というと、朝鮮戦争特需でちょうど高度経済成長が始まった頃である。この頃は人口も経済も伸びて、日本に...
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野球道とは負けることと見つけたり:その16(1,553字)
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ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
蔦文也の1951年から1983年までの32年間の年表を見てみたい。その人生がいかにジェットコースターだったか分かる。その谷の深さと、頂の高さは他になかなか比肩するものがない。1951年(28歳)池田高校の監督になる。1952年(29歳)ベンチで指揮を執り始める。1953年(30歳)目立った成績を残せず。1954年(31歳)目立っ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その15(1,765字)
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ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
蔦文也は1951年(28歳)に池田高校の教師となり、翌1952年(29歳)から監督として采配を振るうようになる。そんな文也が初めて甲子園に出られたのが1972年(49歳)のときだった。つまりまだ若者だった頃から中年になるまで、丸々20年間、苦杯を舐め続けた。しかも、この間の池田は常に県の優勝候補の一角を占めていた。...
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野球道とは負けることと見つけたり:その14(2,098字)
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ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
文也の父は教師であった。それも徳島商業の教師であった。だから文也は徳商に行くのは初めは嫌がっていたという。父が教師をしている学校に行くのが恥ずかしかったのだ。この恥ずかしさには、単に「父だから」ということの他に、もう一つの理由があった。それは文也の父がアル中だったことだ。それもかなり重度のアル中...
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野球道とは負けることと見つけたり:その13(1,719字)
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ハックルベリーに会いに行く 1ヶ月前
文也が監督になったのは1951年、29歳の年だった。全国制覇をするのが1982年だから、そこから実に31年が経過したことになる。このとき、文也は60歳になっていた。ちょうど教師を定年する年だった。その文也の30余年の苦闘とはどのようなものだったか?まずは「甲子園の呪い」ともいえる日々だった。監督に就任したときか...
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野球道とは負けることと見つけたり:その12(1,630字)
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ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
1951年、蔦文也は池田高校の監督に就任したが、ベンチに入ることはできなかった。当時の規定で、元プロ野球選手は引退後一年間、監督になれないという高野連の規定があったからだ。それでこの年だけ、文也は球場の観客席で試合を見守ることとなった。この年の池田は、エース蔵の活躍で二回戦を突破し、準決勝に進出する...
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野球道とは負けることと見つけたり:その11(1,855字)
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ハックルベリーに会いに行く 2ヶ月前
蔦文也は引き裂かれた男である。能力はあるが根性はない。それは、幼い頃甘やかされて育ったからだ。そのため何をやらせても、はじめは調子よく自分でもその気になるのだが、肝心のところで挫けてしまい、ビビって負けてしまう。それで逃げるが、ときどきの環境と根が真面目な性格だったため、最後まで逃げ切れず、また...
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野球道とは負けることと見つけたり:その10(1,624字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
蔦文也は1951年に池田高校の野球部監督に着任した。27歳になる年のことであった。池田高校野球部は、戦後すぐの1946年に発足した(当時はまだ旧制の池田中だった)。はじめは同好会だったが、翌年の1947年から正式に部としての運営をスタートし、甲子園を目指す公式戦にも参加した。当時の徳島県の公式チームは15校であ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その9(1,791字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
1950年、文也は東急フライヤーズに入った。背番号は16。見合い結婚したばかりだったが、新妻は郷里に残してきた。東急フライヤーズは日本ハムファイターズの前身で、本拠地は東京にあった。文也の背番号は16だった。二軍の練習場所は読売ジャイアンツと同じ多摩川グラウンド。だから練習していると巨人の16番と間違えた...
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野球道とは負けることと見つけたり:その8(1,735字)
コメ2
ハックルベリーに会いに行く 3ヶ月前
蔦文也は1923年の生まれだが、よくよく考えるとぼくの母方の祖母が1923年の生まれであった。祖母の苦労はなんとなく知っているので、蔦文也の苦労もまた実感できるようになった。戦争は1941年に始まり1945年に終わった。この4年間は、文也にとって18歳から22歳という最も多感な時期だった。しかも特攻隊員だったのだ。こ...
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野球道とは負けることと見つけたり:その7(2,011字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
同志社大学はミッションスクールでアメリカとの親和性が強かった。そのため軍国教育や日本の国家主義には最後まで抵抗した。だから戦時中は、相当肩身の狭い思いをしただろう。それでもキリスト教徒の頑なさで、かなりギリギリのところまで抵抗した。キリスト教徒は抵抗することへの抵抗が少ない。なにしろ教祖のイエス...
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野球道とは負けることと見つけたり:その6(1,599字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
蔦文也は1923年の生まれである。ぼくが好きな『二十四の瞳』という映画に出てくる12人の少年少女は、1921年生まれの設定である。そのため文也は、彼らより2学年下ということになる。また、場所も徳島と小豆島でそう遠くない。だから『二十四の瞳』を見れば、文也の少年時代の日本、文化というものがなんとなく体感できる...
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野球道とは負けることと見つけたり:その5(1,968字)
コメ2
ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
いきなりドラマの構成を考えるのはとても骨が折れることなので、その前段階として、第一話に描くエピソードの背景というものをあらためて書き出していきたい。蔦文也は徳島商業に入学する。それは徳島商業監督、稲原幸雄に請われたからでもあった。当時の甲子園はまだ小規模で、四国からは一校しか出られなかった。そし...
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野球道とは負けることと見つけたり:その4(1,937字)
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ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
第一話「死ねなかった男」構成1945年、22歳の蔦文也が酒をあおっている。場所は鹿児島県の知覧。特攻隊の基地があるところだ。隊員宿舎の自室で、文也は一人、どこからか手に入れた酒をあおりにあおっている。翌朝。目覚める文也。起きて早々、二日酔いの頭痛を覚える。ふと時計を見ると、大遅刻したと分かる。「ありゃ…...
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野球道とは負けることと見つけたり:その3(2,052字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 4ヶ月前
前回に続き、蔦文也を主人公とした5話完結のドラマの構成について書いていく。第四話「手も足も出せなかった男」星稜対箕島は、延長18回と二度の奇跡的な同点ホームランという劇的な内容の末、箕島がサヨナラ勝利した。そうして箕島は、なんとそのまま決勝戦まで勝ち進み、同じく勝ち上がった蔦の池田と当たるのだ。この...
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野球道とは負けることと見つけたり:その2(1,656字)
コメ2
ハックルベリーに会いに行く 5ヶ月前
今回は、蔦文也を主人公とした5話完結のドラマの、構成について書いてみたい。第一話「死ねなかった男」蔦文也は、特攻隊員だった。徳島県三好市池田町の素封家の息子として生まれた文也は、何不自由なく甘やかされて育った。そのため心が弱かった。幼い頃から野球が得意で、徳島商業に入学すると、見事甲子園出場を果た...
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野球道とは負けることと見つけたり:その1(1,451字)
コメ0
ハックルベリーに会いに行く 5ヶ月前
I found that the path of baseball means losing.大谷翔平選手の活躍や、その前のイチロー選手や松井秀喜選手の活躍、あるいはWBCでの三度の優勝などで、世界野球における日本の地位はいやがうえにも向上した。野球は、他のメジャースポーツに比べると人気そのものは下降気味ではあるものの、それでもまだまだ十分メジ...