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岩崎夏海さん のコメント

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岩崎夏海
>>1
それはひどい先生ですね。
でも、ひどい先生からひどい評価をされたというのは、逆に良かったことの証明だと思います。
それに、そういうひどい評価の方が、かえって生きていく力になる時もあるので、ひどい先生にも一定の存在価値というのがあるんですよね。
No.2
139ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
「アイ・アム・サム」というのは、とても挑戦的な作品だ。それは、障害者をテーマにしているからではない。障害者の姿を通して、人間の根源的な悲しみと、正面から向き合っているからだ。 この作品の主人公であり、タイトルにもなっているサムは、知的障害者である。映画の中でサムは、分かりやすくするためか「7歳児並みの知能」とされている。それを、障害者ではないショーン・ペンが演じている。 テーマは、非常にストレートだ。知的障害者のサムに、子供を育てられるか否か? ただし、その結論はすでに示されている。 答えは「否」――つまり、育てられない、というのだ。 そういう、身も蓋もない内容を描いたのが、この作品なのである。 しかしながら、この作品は、必ずしも身も蓋もない内容に終わっているわけではない。人間の根源的な悲しみを扱いながら、単なる絶望にはとどまらないのだ。そこのところが、この映画を全く特別なものとしている。 知的障害者のサムは、健常者の女性と暮らしていた。やがて2人の間に子供ができるのだが、女性は、子供を産むとすぐに行方をくらましてしまう。そうして、サムは生まれたての赤ん坊、ルーシーを一人で育てなければならなくなった。 サムは、隣人の協力なども仰ぎながら、ルーシーを育てていく。しかし、やがて彼女が6歳くらいになると、さまざまなトラブルに見舞われる。特に、「教育をどうするか」という問題が、大きく立ちはだかるのだ。 サムは、ルーシーの発する素朴な疑問にも、次第に答えられなくなる。そればかりか、できのいいルーシーに、時には教えられるような格好になる。そのうえ、子育ての状況を監視に来た当局の係員の前で、興奮して我を失うという失態も演じてしまう。 その結果、ルーシーは養護施設に強制的に引き取られてしまうのだ。サムでは、子供を育てられないと判断されたからだ。そうして、2人は引き裂かれてしまう。 しかしながら、サムもルーシーも、引き裂かれることを望んでいない。彼らは、再び一緒に暮らすことを望む。 ところが、そこに難しい問題が横たわる。アメリカでは、子供に「教育を受ける権利」というのが認められているのだが、知的障害者の親では、それが果たされない――というのだ。 そのためサムは、裁判に打って出る。ちょうど、映画で「クレイマー、クレイマー」を見たばかりだったので、有能な弁護士に頼めば、ルーシーを取り戻してくれるのではないかと考えたのだ。 そうして、アニーという有能な弁護士に弁護を引き受けてもらうことになるのだが、そこに、一つの悲劇が待ちかまえている。アニーは、裁判に勝つために、ある残酷な決断をくだすのだ。 それは、「愛し合っている親子を引き離すのは非人道的だ」と、情に訴えても勝ち目はないと判断したため、なんとかサムの「子供を育てる能力」を証明しようとするのである。つまり、サムに健常者のような振る舞いを求めるのだ。そうして、「7歳児並の知能」という評価を、裁判で覆そうとするのである。 しかしその結果、サムは、自らの知的障害というハンデキャップと、正面から向き合わされることになる。と言うより、それを否定しなければならなくなるのだ。「自分は知的障害者ではない」と、自らの性質――もっといえば「個性」を、真っ向から否定する必要に迫られるのである。 しかし、それがサムを苦しめる。サムは、これまで自身の障害と、なんとか折り合いをつけながら生きてきた。しかし、裁判に臨む過程で、相手弁護士から執拗にそれを追求される。いうならば、彼の心の傷口をほじくり返されるのだ。 そうして結局、それに耐えられなかったサムは、健常者のように振る舞うこともできず、裁判に負けてしまう…… こうして筋だけ追ってみると、この映画はあまりにも救いがない。身も蓋もなく、人間の根源的な悲しみをありありと浮き彫りにしている。 しかしながら、そういう内容であるにもかかわらず、この作品はエンターテインメントとして、しっかりと成立しているのだ。明るく、前向きな雰囲気を、ちゃんと身にまとっているのである。もちろん、ポジティブ一辺倒とはいかなけれど、暗い、陰鬱な話では終わっていない。 なぜなら、 
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。