映画「風立ちぬ」の主人公である堀越二郎は実在の人物で、この作品はその堀越二郎にインスピレーションを得て、作家の堀辰雄と混交させて作られている。だから、「堀越二郎がどういう人間か?」というのは、この映画にとってとてもだいじだ。それは、監督の「宮崎駿がどういう人間か」ということより、この作品を理解するうえではよっぽどだいじなのである。

ところが、多くの人が「宮崎駿がどういう人間か」ということについては喧しく議論するくせに、「堀越二郎がどういう人間か」ということについてはちっとも語ろうとしない。それは、堀越二郎のことをよく知らない一方で、監督の宮崎駿のことなら、その作品を何本も見てきているから「分かった気」になっているからだ。つまり、知らないことを調べようともしないくせに、分かった気分だけは味わいたいという、非常に「怠惰」な態度なのである。

そういう観客が多いから、この作品はほとんどの人に正しく理解されない。
いや、この言い方は正確ではない。宮崎駿が何者かを知らない人――たとえばこの映画が初めての宮崎作品となる小さな子供などには、正しく理解されるだろう。あるいは、高齢で(およそ80歳以上)昔のことをよく知っている人にも、「あの頃はこんな感じだったな」と、よく理解されると思う。
さらには、歴史が好きで近現代史に詳しい人や、大正や昭和の日本文学に造詣が深い人にも、比較的理解される。
ただ、それ以外の人にとってはなかなか理解が深まらない。なぜなら、理解するための「よすが(引っかかりのようなもの)」が少ないからだ。


そのため、この映画をめぐってはさまざまな誤解が発生している。中でも問題なのが、恋人である菜穂子への接し方を見て、「堀越二郎は薄情である」などとする解釈だ。しかもそれを、彼の「天才」と絡めて理解しようとすること――これがオカルトも甚だしいのである。