以前の個人事業主だったときは、自分が頑張ることしか考えていなかった。しかし経営者となると、そこに勤める人の働き方についてまで、ある程度の決定権を有することになる。だから、自分ではない他者の働き方ということにも考えが及ぶようになったのだ。
そこでまず考えたのは、「働く時間を『定時出勤、定時退社』にする」ということだった。昔のサラリーマンのような働き方だ。そして、残業も基本的にさせないようにした。
そうしたのは、ぼくの働き方からフィードバックしてのことだった。
ぼくは以前、それこそ昼夜問わず、24時間働いていた。周りもそういう雰囲気で、それに合わせるしかなかった。放送作家のときは、会議が夜中の0時からスタートする――などということもざらにあった。だから、自分で働く時間を決められるような環境ではなかったのだ。
そして、その頃は効率の良い仕事ができなかった。自分のポテンシャルを発揮できているとは言い難かった。そうして結局、ぼくは放送作家を廃業した(せざるをえなくなった)。
ところがその後、放送作家を辞めて規則正しい生活するようになったとたん、能率が上がった。ポテンシャルを発揮できる度合いが増えた。
そこで気づいたのは、人間は、働ける時間が「24時間ある」と思うと、時間の価値に対する感性が鈍ってしまって、どうしても仕事が遅くなる――ということだった。そして、時間の価値に対する感性が鈍ったり、仕事が遅くなったりすれば、できあがる成果物のクオリティもまた、下がるのだった。
成果物のクオリティは、短い時間の中でパッと集中して作った方が上がる。だから、24時間働いていると、成果物の「量」こそ増やすことができるものの、その「質」は一向に上げられなかったのだ。
24時間働いていると、そもそも「効率」ということを考えなくなる。
しかし、これまで四半世紀働いてきて分かったのは、仕事の成果というのは、「働き方」によって大きく変わるということだ。働き方が良ければ成果物も良くなるし、働き方が悪ければ成果物も悪くなる。
だから、成果物を良くするためには働き方を良くしなければならないのだが、働き方を良くするというのは、「効率を上げる」ということとほんとど同義なのであった。
仕事を良くするということは、「効率を上げる」ということとイコールと考えて間違いない。
そして効率を上げるには、時間に対するセンスを磨く必要があるのだが、それには時間を「限る」必要が出てくるのである。
そういう考えから、ぼくの会社では働く時間を9時から17時までと決めた。途中に昼休みも1時間取るから、1日の労働は7時間。完全週休2日制だから、週の労働時間は35時間である。
ぼくは、現代は週に35時間も働けば十分だと考えている。逆に、それ以上働くと能力がどんどん下がってしまい、社会の中で使い物にならなくなる。
週に35時間の労働時間で、では「楽」で「ゆるい」会社かといえば、けっしてそうではない。35時間しか働く時間がない中で、やらなければならない仕事の量は決まっているわけだから、それをこなすには、その限られた時間の中で効率を上げていかなければならないのである。とにかく時短、スピードアップが求められるのだ。
例えば、今、ぼくの会社ではYouTubeのチャンネルを運営し、そこで動画を企画・制作・配信しているのだが――
HuckleTV/ハックルテレビ
そこでは、月曜日から金曜日までは毎日2本、土日は1本ずつ、合計で週に12本の動画をアップすると決めている。その企画、準備、撮影、編集、そして配信を、35時間の中でまかなわなければならないのである。
これは、かなり忙しい状態だといえる。効率の良さというものを追求していかないと、これだけの本数をこなすことができない。そのため、自然と効率のことを考えるような仕組みになっているのだ。
ただ、そういうふうに効率ばかり重視すると、中身の方が疎かになるのではないかと疑う人も多いだろう。しかしながら、その心配はほとんどない。
というのも、これはYouTubeのいいところなのだが、成果物が衆人の目にさらされ、そこで「再生回数」という言い逃れのできない評価を受けるので、クオリティを下げればとたんに露見してしまうのだ。手抜きが許されないのである。
だから、効率を重視しつつ、クオリティも上げていかなければならないという、二重の問題解決を求められる。ただ、クリエイティブというものは二つ以上の問題を一気に解決してこそ成し遂げられるから、そこで一石二鳥を図れるような――つまり時間を短縮しつつクオリティを上げられるような仕事のやり方を見つけられれば、それこそがクリエイティビティとなって、周囲から評価される成果物を作れることとなるのだ。
そういうふうに、仕事のやり方のクオリティが上がれば、自然と成果物のクオリティも上がっていくようになっている。
例えば、ぼくの会社のYouTubeチャンネルでは、そうした仕事への取り組み方、働き方なども、ドキュメンタリーとして記録し、動画として配信している。
これは、上記の一石二鳥を追い求める中から生まれた考えだ。自分たちの働き方をドキュメンタリー動画にすれば、取材の手間が省けるから時短になるし、自分たちの働き方に対してのさまざまなフィードバックも得られ、それが仕事のクオリティアップにもつながるのである。
これは一つのアイデアだが、それが生まれたのも、働く時間を短く制限したからこそなのだ。
追記(2014年9月19日)
関連して新しい記事を書きました。
これからの経営者には「居場所設営スキル」が必要とされるだろう(2,377字)
コメント
コメントを書く>>37
その表現だと途上国を食い物にしたようで何となく語弊があるよ。
日本は戦前から列強の一角を占めてたでしょ。
確かに敗戦後の復興期は米からの技術移転や世界情勢の後押しがあったけど。
週60時間働いてるけど、正直自分の時間が無くて仕事のやる気がどんどん落ちて悪循環してる。接客業だから店開いてなきゃいけないのは分かるけど……
やっぱり、独立していく新しい経営者の中では、考え方が変わってきているみたいだね。時代もじょじょに変わってきたんだと思う。
無茶な働き方が、戦後復興を作ったという意見は興味深いけど、自分は逆だと思いますね。戦後のアメリカへの憧れとか、物に対する飢餓感とかが、そういった働き方を可能にしたんだと思います。それを完全に否定するのは、やっぱり変だと思いますよ→36さん 自分の認識では、戦後復興の世代と、働き潰れていった世代は、ちょっと違うと思います。10年から20年の開きがあるんじゃないでしょうか。もっと物資が豊かになっていったあとの話ですよ。
我々の多くは戦後の飢餓感とか、豊かなアメリカへの憧れの正体を理解できない世代ですし、働き方の変化を求めている人々の大半は、物が豊かになってから生まれた世代じゃないでしょうか。
これからじょじょに日本はヨーロッパのスタイルに近くなっていくと思います。思えば、1世紀も前のこと、似たような話がヨーロッパにもありましたっけ。稼業時間が長すぎて、多くの人が苦痛を訴えた時代でした。知識人もひんぱんに労働問題を取り扱っていました。そんなふうに日本が変わっていってほしいと思います。
>>31
戦後復興は国内の努力と言うより、国家予算の十数倍にも及んだ国外からの資金投入の影響の方がデカかったと思う。
日本の急成長も、日本以外の国々の急成長と仕組みは同じだろう。
もちろん当時の人々も努力はしただろうが。
昔と今では仕事の密度が違う。交通やPC、ネットが発達した分、仕事と仕事のスキマが無くなった。
昔はゆっくり時間かけて仕事してた(残業は正義)。今は短時間に詰め込んでる(残業は悪)。
PCだってゆっくりだと休憩無しでも働けるが、ハードだと休憩が必要になる。
「最近の若者は甘い。労働に関してすぐ文句を言う。」と言われるが、会社に長居してるだけで働いた気になってる老人に言われたくない。
時間軸で相対的な比較をするとちょっと論点が曖昧になっていくと思う。ワーキングスタイルという意味では時代とは関係なく、古今東西こういう考えは通用する(していた)んじゃないのかな。ダメ人間の勝手な邪推に過ぎないけれど、この人は
・集中力の使い方を知っている(ヘタな考え休むに似たり、をしない)
・時間の計算ができる(数分単位のタスク遅れや、アクシデントや割り込みへの判断力が速い)
・気持ちの切り替えが巧い(業務内や、アフター5も含めて)
というスキルを持っていて、見習う点はあるけれど自分にはできるものじゃないと痛感した。情けないけれど。
時間をかけることで質が向上する部分も少なからずあるとは思うけれど…
そもそも昔は今みたいにデータで受け渡しや処理ができて、日本全国どこでも通信ができて、修正や見直しも素早く行えて…って時代じゃなかったから同じ時間で今と同じだけの作業をしてたわけじゃないと思うんだよなぁ。
作業の密度が上がれば増える負担や疲労もあるわけだし、効率がすべてとは言わないけど、長時間働くことが正しいと思い込んでる人は一日にどれだけの作業をして、無駄な時間がどれだけあったのかとかを見つめなおしてみるべきかもね。
労働なんかしなくて済む社会になると良いですね
過労が許されたのは、当時バブルと終身雇用で給料がきちんと上がって言ったという点も多い
あの当時とは違う環境なのに、未だにバブル期と同レベルで過労を強いる団塊世代が多いのは困り者
せやな