記事へ戻る K2ndさん のコメント K2nd 前回の私の質問コメント(>>6)の回答(>>10)で、正義のセリフの意図が著者である岩崎さんの視点で知ることができたので、それを踏まえてもう一度「もしドラ」を最初から読みなおしてみようと思います。お忙しい中、非常に丁寧なレスを頂きありがとうございました。 このエントリーにも深く関係する「顧客からスタートする」という概念は物凄く重要なファクターだと思うのでもう少し掘り下げさせて下さい。(今回も頑張って1コメントを2000文字前後に纏めてみますw) 私は「顧客からスタートする」というドラッカーの論旨に今でも違和感をずっともっています。よってその概念をトレースしてエンタメとして再構築された「もしドラ」にも違和感が残ったままです。 なぜなら、僕が尊敬するイノベーターであり実業家でもある本田宗一郎(HONDAの創業者)、盛田昭夫(ソニー創業者)、スティーブ・ジョブス(アップル創業者)の誰もが「顧客からスタートする」とは誰ひとりと言ってないですし、実戦してこなかったからです。教壇に立ち続けたドラッカー以外でそれを言い続けた人を知りません。 まだまだ修行中の身でたいしたものは作ってないですが、僕自身においても「顧客からスタート」して作品や製品やサービスを作ったことがありません。 この議論を始める前に、顧客とはそもそもどういう意味として定義されているのか、まずはこのレベルから整理したほうが良いかもしれませんね。 三省堂 大辞林:(商店などの)お得意客。 goo国語辞書:顧客=ひいきにしてくれる客。得意客。 グロービスMBA経営辞書:顧客=潜在的に購買の意思と能力のある人 はてな辞書:顧客=お客様。お金儲けするためになんらかの物事を提供してくれる人または法人。 岩崎さんの思う顧客の定義、ドラッカーの顧客の定義はなんでしょうか?(Q1) ちなみに私が思う顧客は結果であって、スタートには成り得ないと思います。 岩崎さんの表現だと、誰かという言葉に自分も含まれているという例を前回のコメント(>>10)でされていましたが、私も社会を1つの人体として捉えることがよくあるのでそれはそれでよくわかるのですが、日常的に使う誰かという言葉には普通自分が含まれていませんよね。顧客も同様に。 「誰かこれをやっておいてくれないか」 とある人がいった時、その誰かに発言者(自分自身)は含まれていないでしょう。 「顧客は何を求めているのか」 とメーカーのある人が考えた時、その顧客リストの中に自分は含まれないでしょう。 サービスや製品、もっと平たく言えば人の役に立つものを作る時、本当に顧客※からはじまるのかという素朴な疑問。私の前回のコメント(>>6)でも触れた野球の歴史は、実際に顧客から始まっていたのでしょうか?(Q2) ※Q1の回答次第(顧客の定義によって)で設問の意味が変わる可能性あり "多くの人は「自分が読みたいと思うもの」を具体的に説明できない。なぜなら、多くの人には、「自分が具体的に説明できないもの」を読みたい――という気持ちがあるからだ。" これはまったくもってその通りだと思います。異論も違和感もありません。 "ここに、メビウスの輪のような円環構造が出現する。 まず、クリエイターは「ユーザーがほしいと思うもの」を考えなければならない。しかしながら、ユーザーがほしいと思うものをユーザーは知らないし、教えてくれない。だから(中略) 「ユーザーが求めるものを作る」ということは、一周回って「自分がほしいものを作る」ということになるのだった。" この表現はいくつか違和感があります。ドラッカーの「顧客からスタートする」という概念をベースにしている捉え方だからだとは思うんですけど、「余計なループ」を一周しているような感覚に陥るのがまず一点。もう一点は、言葉の無意識な変換によって答えが微妙にずれてしまっている点です。 一点目については、『7つの習慣』にでてくる「インサイドアウト」という概念がよりシンプルで実際の感覚に近く、顧客からスタートすると出現してしまうメビウスの輪のような余計なループが出てきません。 "インサイドアウトの考え方では、私的成功が公的成功に先に立つ。つまり他人に対して約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守らなければならないということなのだ。"『7つの習慣』より このように「誰か(顧客)のために」といきなり公にふらずに、まず自分自身のためにと私的な視点からスタートするほうが人間にとってより自然であると思います。本田宗一郎も盛田昭夫もスティーブ・ジョブスも全員例外なく、顧客からではなく私的なところからスタートしています。人間は、他人のことよりも自分のことのほうが「まだ」理解しやすい生き物です。 二点目については、読者が読みたいもの、ユーザーが使いたいものであれば、まずクリエイターが最初の読者に、最初のユーザーになってみるということが最も大切なことであって、自分が「欲しい物」をつくるというのは表現的にミスリードになると思います。 「欲しいもの」というのは、言葉を額面通り受け止めれば「所有欲を満たすもの」です。自分の身の回りを見ていただければわかると思うのですが、欲しいものと使いたいものや読みたいものは実際には結構異なってきます。 私は以前、日本の大手電機メーカーに勤務していたこともあり、よくある日本企業のやらかす誤ちには敏感に反応できます。日本メーカー、特に大手メーカーがよくやってしまう誤ちは、「自分(たち)が使いたいものを作らずに、自分(たち)が作りたいものを作ってしまう」ことです。 岩崎作品でいえば、『エースの系譜(真の処女作)』と『もしドラ(デビュー作)』はそういう視点でまったく別の作品になっているのではないかと思います。 『エースの系譜』はまだ最初の方しか読めていないので間違った認識をしているかもしれませんが、『もしドラ』は「多くの人に読んでもらいたいという視点で書かれた作品」であり、『エースの系譜』は岩崎さん本人が最も「書きたかった作品」ではないでしょうか? 処女作というのは、自分が作りたかった、自分が書きたかったものが非常に出やすい傾向があります。自分が作りたかったもの、書きたかったものというのは、完成した時点でまだユーザーや読者が1人もいない状態の危険なものなのです。 私の知る限りヒットを生み出すクリエイターは、そのとき自分が最も使いたかったもの、最も読みたかったもの、最も見たかったものを世に送り出しいることが多いです。視野が広く、人間の本質と多くのものを吸収しているトップクリエイターたちが日々思う、今見たい、今読みたい、今使いたいと感じるものは、時代が求めているのに世の中にはまだ存在しないものばかりです。 P.S. 今回2000文字をオーバーしたかもしれないですが、岩崎さんはいつもどうやって文字数をカウントされてますか? No.14 143ヶ月前 Post このコメントは以下の記事についています ユーザーが求めるものを作るたった一つの方法(1,924字) ハックルベリーに会いに行く 『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。 » このブロマガへ
K2nd 前回の私の質問コメント(>>6)の回答(>>10)で、正義のセリフの意図が著者である岩崎さんの視点で知ることができたので、それを踏まえてもう一度「もしドラ」を最初から読みなおしてみようと思います。お忙しい中、非常に丁寧なレスを頂きありがとうございました。 このエントリーにも深く関係する「顧客からスタートする」という概念は物凄く重要なファクターだと思うのでもう少し掘り下げさせて下さい。(今回も頑張って1コメントを2000文字前後に纏めてみますw) 私は「顧客からスタートする」というドラッカーの論旨に今でも違和感をずっともっています。よってその概念をトレースしてエンタメとして再構築された「もしドラ」にも違和感が残ったままです。 なぜなら、僕が尊敬するイノベーターであり実業家でもある本田宗一郎(HONDAの創業者)、盛田昭夫(ソニー創業者)、スティーブ・ジョブス(アップル創業者)の誰もが「顧客からスタートする」とは誰ひとりと言ってないですし、実戦してこなかったからです。教壇に立ち続けたドラッカー以外でそれを言い続けた人を知りません。 まだまだ修行中の身でたいしたものは作ってないですが、僕自身においても「顧客からスタート」して作品や製品やサービスを作ったことがありません。 この議論を始める前に、顧客とはそもそもどういう意味として定義されているのか、まずはこのレベルから整理したほうが良いかもしれませんね。 三省堂 大辞林:(商店などの)お得意客。 goo国語辞書:顧客=ひいきにしてくれる客。得意客。 グロービスMBA経営辞書:顧客=潜在的に購買の意思と能力のある人 はてな辞書:顧客=お客様。お金儲けするためになんらかの物事を提供してくれる人または法人。 岩崎さんの思う顧客の定義、ドラッカーの顧客の定義はなんでしょうか?(Q1) ちなみに私が思う顧客は結果であって、スタートには成り得ないと思います。 岩崎さんの表現だと、誰かという言葉に自分も含まれているという例を前回のコメント(>>10)でされていましたが、私も社会を1つの人体として捉えることがよくあるのでそれはそれでよくわかるのですが、日常的に使う誰かという言葉には普通自分が含まれていませんよね。顧客も同様に。 「誰かこれをやっておいてくれないか」 とある人がいった時、その誰かに発言者(自分自身)は含まれていないでしょう。 「顧客は何を求めているのか」 とメーカーのある人が考えた時、その顧客リストの中に自分は含まれないでしょう。 サービスや製品、もっと平たく言えば人の役に立つものを作る時、本当に顧客※からはじまるのかという素朴な疑問。私の前回のコメント(>>6)でも触れた野球の歴史は、実際に顧客から始まっていたのでしょうか?(Q2) ※Q1の回答次第(顧客の定義によって)で設問の意味が変わる可能性あり "多くの人は「自分が読みたいと思うもの」を具体的に説明できない。なぜなら、多くの人には、「自分が具体的に説明できないもの」を読みたい――という気持ちがあるからだ。" これはまったくもってその通りだと思います。異論も違和感もありません。 "ここに、メビウスの輪のような円環構造が出現する。 まず、クリエイターは「ユーザーがほしいと思うもの」を考えなければならない。しかしながら、ユーザーがほしいと思うものをユーザーは知らないし、教えてくれない。だから(中略) 「ユーザーが求めるものを作る」ということは、一周回って「自分がほしいものを作る」ということになるのだった。" この表現はいくつか違和感があります。ドラッカーの「顧客からスタートする」という概念をベースにしている捉え方だからだとは思うんですけど、「余計なループ」を一周しているような感覚に陥るのがまず一点。もう一点は、言葉の無意識な変換によって答えが微妙にずれてしまっている点です。 一点目については、『7つの習慣』にでてくる「インサイドアウト」という概念がよりシンプルで実際の感覚に近く、顧客からスタートすると出現してしまうメビウスの輪のような余計なループが出てきません。 "インサイドアウトの考え方では、私的成功が公的成功に先に立つ。つまり他人に対して約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守らなければならないということなのだ。"『7つの習慣』より このように「誰か(顧客)のために」といきなり公にふらずに、まず自分自身のためにと私的な視点からスタートするほうが人間にとってより自然であると思います。本田宗一郎も盛田昭夫もスティーブ・ジョブスも全員例外なく、顧客からではなく私的なところからスタートしています。人間は、他人のことよりも自分のことのほうが「まだ」理解しやすい生き物です。 二点目については、読者が読みたいもの、ユーザーが使いたいものであれば、まずクリエイターが最初の読者に、最初のユーザーになってみるということが最も大切なことであって、自分が「欲しい物」をつくるというのは表現的にミスリードになると思います。 「欲しいもの」というのは、言葉を額面通り受け止めれば「所有欲を満たすもの」です。自分の身の回りを見ていただければわかると思うのですが、欲しいものと使いたいものや読みたいものは実際には結構異なってきます。 私は以前、日本の大手電機メーカーに勤務していたこともあり、よくある日本企業のやらかす誤ちには敏感に反応できます。日本メーカー、特に大手メーカーがよくやってしまう誤ちは、「自分(たち)が使いたいものを作らずに、自分(たち)が作りたいものを作ってしまう」ことです。 岩崎作品でいえば、『エースの系譜(真の処女作)』と『もしドラ(デビュー作)』はそういう視点でまったく別の作品になっているのではないかと思います。 『エースの系譜』はまだ最初の方しか読めていないので間違った認識をしているかもしれませんが、『もしドラ』は「多くの人に読んでもらいたいという視点で書かれた作品」であり、『エースの系譜』は岩崎さん本人が最も「書きたかった作品」ではないでしょうか? 処女作というのは、自分が作りたかった、自分が書きたかったものが非常に出やすい傾向があります。自分が作りたかったもの、書きたかったものというのは、完成した時点でまだユーザーや読者が1人もいない状態の危険なものなのです。 私の知る限りヒットを生み出すクリエイターは、そのとき自分が最も使いたかったもの、最も読みたかったもの、最も見たかったものを世に送り出しいることが多いです。視野が広く、人間の本質と多くのものを吸収しているトップクリエイターたちが日々思う、今見たい、今読みたい、今使いたいと感じるものは、時代が求めているのに世の中にはまだ存在しないものばかりです。 P.S. 今回2000文字をオーバーしたかもしれないですが、岩崎さんはいつもどうやって文字数をカウントされてますか? No.14 143ヶ月前 Post このコメントは以下の記事についています ユーザーが求めるものを作るたった一つの方法(1,924字) ハックルベリーに会いに行く 『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。 » このブロマガへ
このエントリーにも深く関係する「顧客からスタートする」という概念は物凄く重要なファクターだと思うのでもう少し掘り下げさせて下さい。(今回も頑張って1コメントを2000文字前後に纏めてみますw)
私は「顧客からスタートする」というドラッカーの論旨に今でも違和感をずっともっています。よってその概念をトレースしてエンタメとして再構築された「もしドラ」にも違和感が残ったままです。
なぜなら、僕が尊敬するイノベーターであり実業家でもある本田宗一郎(HONDAの創業者)、盛田昭夫(ソニー創業者)、スティーブ・ジョブス(アップル創業者)の誰もが「顧客からスタートする」とは誰ひとりと言ってないですし、実戦してこなかったからです。教壇に立ち続けたドラッカー以外でそれを言い続けた人を知りません。
まだまだ修行中の身でたいしたものは作ってないですが、僕自身においても「顧客からスタート」して作品や製品やサービスを作ったことがありません。
この議論を始める前に、顧客とはそもそもどういう意味として定義されているのか、まずはこのレベルから整理したほうが良いかもしれませんね。
三省堂 大辞林:(商店などの)お得意客。
goo国語辞書:顧客=ひいきにしてくれる客。得意客。
グロービスMBA経営辞書:顧客=潜在的に購買の意思と能力のある人
はてな辞書:顧客=お客様。お金儲けするためになんらかの物事を提供してくれる人または法人。
岩崎さんの思う顧客の定義、ドラッカーの顧客の定義はなんでしょうか?(Q1)
ちなみに私が思う顧客は結果であって、スタートには成り得ないと思います。
岩崎さんの表現だと、誰かという言葉に自分も含まれているという例を前回のコメント(>>10)でされていましたが、私も社会を1つの人体として捉えることがよくあるのでそれはそれでよくわかるのですが、日常的に使う誰かという言葉には普通自分が含まれていませんよね。顧客も同様に。
「誰かこれをやっておいてくれないか」
とある人がいった時、その誰かに発言者(自分自身)は含まれていないでしょう。
「顧客は何を求めているのか」
とメーカーのある人が考えた時、その顧客リストの中に自分は含まれないでしょう。
サービスや製品、もっと平たく言えば人の役に立つものを作る時、本当に顧客※からはじまるのかという素朴な疑問。私の前回のコメント(>>6)でも触れた野球の歴史は、実際に顧客から始まっていたのでしょうか?(Q2)
※Q1の回答次第(顧客の定義によって)で設問の意味が変わる可能性あり
"多くの人は「自分が読みたいと思うもの」を具体的に説明できない。なぜなら、多くの人には、「自分が具体的に説明できないもの」を読みたい――という気持ちがあるからだ。"
これはまったくもってその通りだと思います。異論も違和感もありません。
"ここに、メビウスの輪のような円環構造が出現する。
まず、クリエイターは「ユーザーがほしいと思うもの」を考えなければならない。しかしながら、ユーザーがほしいと思うものをユーザーは知らないし、教えてくれない。だから(中略)
「ユーザーが求めるものを作る」ということは、一周回って「自分がほしいものを作る」ということになるのだった。"
この表現はいくつか違和感があります。ドラッカーの「顧客からスタートする」という概念をベースにしている捉え方だからだとは思うんですけど、「余計なループ」を一周しているような感覚に陥るのがまず一点。もう一点は、言葉の無意識な変換によって答えが微妙にずれてしまっている点です。
一点目については、『7つの習慣』にでてくる「インサイドアウト」という概念がよりシンプルで実際の感覚に近く、顧客からスタートすると出現してしまうメビウスの輪のような余計なループが出てきません。
"インサイドアウトの考え方では、私的成功が公的成功に先に立つ。つまり他人に対して約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守らなければならないということなのだ。"『7つの習慣』より
このように「誰か(顧客)のために」といきなり公にふらずに、まず自分自身のためにと私的な視点からスタートするほうが人間にとってより自然であると思います。本田宗一郎も盛田昭夫もスティーブ・ジョブスも全員例外なく、顧客からではなく私的なところからスタートしています。人間は、他人のことよりも自分のことのほうが「まだ」理解しやすい生き物です。
二点目については、読者が読みたいもの、ユーザーが使いたいものであれば、まずクリエイターが最初の読者に、最初のユーザーになってみるということが最も大切なことであって、自分が「欲しい物」をつくるというのは表現的にミスリードになると思います。
「欲しいもの」というのは、言葉を額面通り受け止めれば「所有欲を満たすもの」です。自分の身の回りを見ていただければわかると思うのですが、欲しいものと使いたいものや読みたいものは実際には結構異なってきます。
私は以前、日本の大手電機メーカーに勤務していたこともあり、よくある日本企業のやらかす誤ちには敏感に反応できます。日本メーカー、特に大手メーカーがよくやってしまう誤ちは、「自分(たち)が使いたいものを作らずに、自分(たち)が作りたいものを作ってしまう」ことです。
岩崎作品でいえば、『エースの系譜(真の処女作)』と『もしドラ(デビュー作)』はそういう視点でまったく別の作品になっているのではないかと思います。
『エースの系譜』はまだ最初の方しか読めていないので間違った認識をしているかもしれませんが、『もしドラ』は「多くの人に読んでもらいたいという視点で書かれた作品」であり、『エースの系譜』は岩崎さん本人が最も「書きたかった作品」ではないでしょうか?
処女作というのは、自分が作りたかった、自分が書きたかったものが非常に出やすい傾向があります。自分が作りたかったもの、書きたかったものというのは、完成した時点でまだユーザーや読者が1人もいない状態の危険なものなのです。
私の知る限りヒットを生み出すクリエイターは、そのとき自分が最も使いたかったもの、最も読みたかったもの、最も見たかったものを世に送り出しいることが多いです。視野が広く、人間の本質と多くのものを吸収しているトップクリエイターたちが日々思う、今見たい、今読みたい、今使いたいと感じるものは、時代が求めているのに世の中にはまだ存在しないものばかりです。
P.S. 今回2000文字をオーバーしたかもしれないですが、岩崎さんはいつもどうやって文字数をカウントされてますか?
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