ハックルベリーに会いに行く
先日、NFLのスーパーボウルがあった。
NFLは今、世界で一番面白いコンテンツである。その他のメジャースポーツ、例えばMLBやNBAより面白いのはもちろん、世界的なスポーツ大会であるオリンピックやワールドカップより面白い。それどころか、映画やゲームといった他のジャンルのエンターテインメントさえ凌駕している。
なぜこれほど面白いかといえば、そこにはローカル文化が息づいているからだろう。「ローカル文化」というのは、単一の統一された、あまり広がりすぎていない、それゆえあまり合理的ではない文化のことだ。そういう文化の方が、「グローバル文化」よりずっと面白い。
その面白さの違いは、たとえていうなら「世界中から人々が集まったグローバル企業の会議室で行われている英語の会話」と、「どこか地方の井戸端で行われている方言の会話」の違いのようなものだ。この二つでは、「地方の方言で行われている会話」の方が圧倒的に面白い。
なぜなら、方言の会話の方が合理化されていない分、より抽象度の高い、洗練された内容になりやすいからだ。一方、グローバルな場所での会話は、抽象度を高めてしまうとコミュニケーション不全を引き起こす危険性があるため、どうしても機能優先の合理的なものにならざるを得ない。そうして、穏当ではあるもののつまらない会話に陥りやすくなるのだ。
ぼくは、グローバルスポーツにはそういうつまらなさがすでに横溢していると見ている。だから、オリンピックもワールドカップも、あるいはヨーロッパチャンピオンズリーグなども、見ていて物足りない。いや、見方によってはそれなりに面白く、NFLとは別種の楽しみ方もできないことはないのだが、本質的な意味ではつまらなく感じてしまう。
それに比べると、NFLは素直に面白い。それは、世界一巨大な村祭りといえよう。基本的に、その村のローカルな言語によって運営されている。だから、そこには高度に抽象化された、洗練された言語が飛び交っている。これが、見ていて非常に刺激的なのだ。
もちろん、NFLにもローカルであるがゆえの悩みはある。それは「広がりにくい」ということだ。市場の広がりがサッカーや野球に比べるときわめて限定的で、ほとんどアメリカ国内にとどまっている。
それでも、今ではアメリカ一の人気スポーツで、日本をはじめとする世界にも中継されているのだから、世界的な広がりを得ているといっても過言ではない。
それでありながら、しかしいまだにローカル文化としての洗練や抽象化による面白みを残しているのだ。
では、NFLはどのように洗練され、抽象化されているのか? それの何が面白いのか?
その答えの一つに、選手の多様性が担保されている――ということが挙げられよう。
アメフトには、クォーターバック(以下QB)という、野球でいえば投手に当たる中心的な役割のポジションがある。このQB「像」というものが、いまだ確立していない。いや、ある種の方向性こそ定まっているものの、それはいくつかの宗派に分かれている。そのため、宗派の違うQB同士の対決となると、さながら宗教戦争の趣を呈し、見ていて興奮させられるのだ。
こういうことをいうと、「いや、サッカーだってさまざまなスタイルのチームが存在しているから、それらがぶつかり合ったときは興奮する」と反論する人がいるかもしれない。しかしながら、そうしたサッカーファンでも反論できないのは、そこで求められる選手「像」というものが、必ずしも多様ではないということだ。それは極度に一様化している。
そこでは、常に合理的なユーティリティプレイヤーが求められる。例えば、サッカーの最優秀選手を選ぶ「バロンドール」受賞者は、もうここ10年ほどたった2人の選手に限られている。しかもこの2人は、スタイルにそれほどの違いがあるわけでもない。2人とも、極めて合理的なユーティリティプレイヤーという意味でとても似通っているのだ。
その2人、メッシとロナウドは、まず年齢が31歳と28歳で3つしか違わない。またそのプレースタイルも、ドリブルが得意でありながらパスも上手いことや、シュート力がありつつフリーキックも上手いといった、ユーティリティプレイヤーとしての共通項が多い。
これに比べると、今年のスーパーボウルに出場した2つのチームのQB、マニングとニュートンは、ともにサッカーでいえばバロンドールに当たるMVPの受賞経験者なのだが、全く異なったキャラクターをしている。
2人の年齢は、39と26で13も違うし、プレースタイルも、マニングがほとんど走らないのに対し、ニュートンはリーグで一番走る。性格は、マニングが寡黙な頭脳派なのに対し、ニュートンは過剰に陽気な肉体派だ。
これほどの違いがありながら、しかし2人はそれぞれのリーグを1位で勝ち上がり、スーパーボウルに進出した。
そういうふうに、NFLはローカルであるがゆえ、合理的なユーティリティプレイヤーではなく一芸に秀でた異形の選手が活躍する可能性が大いに残されている。おかげで、多様性が担保され、彩りが豊かになり、面白さが増しているのだ。
このローカル文化としてのNFLは、これからのコンテンツ、あるいはエンタテイメントを考える上で、非常に示唆に富んでいる。なぜかというと、これからますますグローバル化、またそれによる合理性が進むことによって、コンテンツやエンターテインメントは、どんどんつまらなくなることが危惧されるからだ。
そのため、コンテンツやエンターテインメントは、必然的にローカル文化への回帰が宿命づけられている。今後は、それが最も大きなテーマの一つとなるだろう。
そうした際に、ネックとなるのは「ローカル文化を保ったまま広がりを得る」ということなのだが、NFLは、すでにそれを高い次元で解決している。だから、これから新たなローカル文化を築いていこうとする全ての人々にとって、NFLは何よりのお手本となるのだ。
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