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「女を宛がえ」論というものがあります。
 いえ……よく考えるとありませんでした。
 いや、あるのですが、実際にはありません。
 ない以上、あるというのは嘘ですが、あるとされています。
 すみません、自分でも何を言っているのかわからなくなってきました。
 敢えて言えば、ツイッター上には「女を宛がえ論がある」論というものがあるということです。即ち、フェミ(……とは限らないかもしれません、情緒的な女性論者)が盛んに上のようなことを口にする傾向があるわけです。「弱者男性どもは(国家などが政策として)自分たちに嫁となる女を宛がえなどと要求しているぞ」と。
 しかしこれはぼくがツイッター上を観察する限り、男性側の「女性をいかに社会進出させても、彼女らは主夫を養うことはないのだからリターンはない。ならば主婦に収まってくれる方が万事うまく回る」というロジックを情緒的短絡的希望的に曲解したものであるように思われます。
 つまり「そのように解釈し得る主張はあり、完全にデマとは言い難いものの、冷静な言い方を故意に捻じ曲げて扇情的に表現する、姑息な手段」という感じが否めないのです。否、姑息というよりは彼女らの耳には「本当に、そのように聞こえている」のでしょうがない、のでしょうが。
 そこに加え、ぱんなさんがいつもの露悪趣味で「いや、俺はまさにそう言っているぞ」などと言うものだから余計話がややこしくなった……というのが経緯で、冒頭の混乱はみな、ぱんなさんのせいであります

 さて、本書です。
 まず手に取ると、帯文が目を惹きます。

学校や職場や学校のなかで、女性と比べ「俺たちの方が大変だし、むしろ被害者だ!」と思わず叫んでしまったことってありませんか?

 いや、北朝鮮の次に表現の自由が保障されているこの国で、こんなことを叫んだらセクハラでクビかと思いますが。
 とは言え、ある意味でこの帯文は、今のネット世論的なものをすくい取っているかと思います。
 しかし更に言うならば、「男こそ被害者」という言い方はネットで散見はされますが、それほど多いとも思えない(いわゆる、フェミ寄りの人物が「女叩き」と称するサイトなどにおいてすらも)。むしろこの表現は『男性学』で伊藤公男師匠が(ぼくの著作に対する評として)した表現と一致しており*1、何というか、彼ら彼女らの業界で相手側の主張を情緒的短絡的希望的に曲解した物言いが、「共有」されているのではないかなー、との疑念を強くします。
「男こそ被害者」はむろん、客観的事実には違いないのですが、ある意味、表面的な事象の指摘であり、少なくともネット議論では既に、もっと深いレベルでフェミニズム批判がなされていることでしょう。上の「女を宛がえ」論の「本来の姿」とでも言うべき、「女は主夫を養わないから社会にリターンがない」との指摘も、その一つです。
 そうした批判に対して、一言も返す術を持たないからこそ、彼ら彼女らはこうした表層的な部分だけを採り挙げざるを得ないわけですね。
 それとこれは余談ですが、町山智弘師匠もアメリカには過激な男性解放論「メニニズム」というのがあり、「男に嫁を宛がえ」と主張しているのだと紹介していたことがあります。これも(絶対に嘘とは言えないものの)本人たちの言と言うよりは、敵対者たちの中で「共有」された表現を町山師匠が受け売りしたのでは、との疑念を拭えません。
 結局、表題としては「今風」な問題を掲げつつ、それに全く対応できずにいるのです。言わば彼ら彼女らは「地球の大気圏外から撮影した写真」が既にネットに出回っているのに「地球は平面だ、地球は平面だ」と泣きわめている教会の人、にすぎないのですね。

 ……あ、いや。
 すみません、帯を見ただけで大変な決めつけをしてしまいました
 いずれにせよ、男性たちの不満をすくい取ろうという気概があるだけでも、本書には評価すべき点があるかも知れません。
 では、そうした男性たちの声に、著者たちはどのように答えているのか。
 まずはページを開いて、まえがきを読んでみることにしましょう。

 はじめに――今、なぜ男子・男性を問題にするのか

(中略)
しかし、女性の就業は男性よりももっと不安定な状態に置かれ、男性の非正規職員は二一.八%なのに、女性は五六.七%と半数を超えています。
(中略)
ジェンダーギャップを見ても、日本は世界のなかで一〇一位ときわめて不平等な社会になっています(二〇一五年現在)。
(3p)

 最っっっっっ初のページからこれです。
 はい、解散!!
 ……と、ここで終了でもいいくらいなのですが、まあそうも行きません。
 もう少し続けましょう。

 今、大事なことは、男子・男性が、女子・女性の一定の社会的進出のなかで、男女共同参画社会は「女性中心的な社会」(山本弘之)だとか「女災社会」(兵頭新児)だとか嘆くことではないでしょう。ましてや、自虐的に「オレたちこそが被害者だ!」などと叫んで、女性の社会進出を揶揄したり、女性を敵視したりすることではないでしょう。
(7p)

 ……………。
 自分、涙いいすか?
 何故、上のような考えがダメなのかは、本書の最後まで説明されません。
 もちろん、拙著についてもここだけの言及で、反論はなされません(読んでもいないのでしょう)。
 今度こそ解散したいところですが、まあ、もうちょっとだけ続けましょう。
 今まで、当ブログでは「男性学」と称する本のレビューを続けて来ました。
 彼らは「男性を解放する」と自称しつつ、「とにもかくにも男が悪い」「女の方が差別されており、それを疑うことはまかりならぬ」「フェミニズムに服従することでしか救いは訪れない」とフェミニズムの古びた理論を十年一日のごとくに並べ立てること(で、自己矛盾が生じていることにも気づかず、ただ聖書の朗読を続けること)しかしませんでした。
 本書も見事なそれらのリプレイであり、ページをめくってもめくっても「あぁ、またそれか」以上の感想を抱くことはできませんでした。
 が、まあ、ぶっちゃけブログネタもなく、一応、月に一度は更新しておきたいので、今回ムリヤリ、上のような切り口を見つけたわけです。
 それは即ち、彼ら彼女らが「現状(の、男性の窮状、男性のフェミニズムへの懐疑)に対応しようとして、無惨な失敗を繰り返している」というものです。
 以上のようなワケなので、まあ、もう、オチを言ったも同然なのですが、以下、軽く解説していきたいと思います。

*1 夏休み男性学祭り(その4:『新編 日本のフェミニズム12 男性学』

 本書は六人の書き手が六章をそれぞれ執筆するというスタイル。
 まず第1章は「「ゆれる」男たち――家族相談からみる男性問題」。
 なるべく穏当に感想を述べれば、一応、男の苦しさに寄り添おうという内容ではあります。例えば妻に逃げられた男性などについて、同情的な筆致で書かれているのです。
 が!
 内容はと言えば相変わらず「女を養うのが男だ」といった性別役割意識はよくないと言いつつ、ではどうすればいいのか(男にとって主夫になるなど非現実的な妄想に過ぎないことなど)についてはスルー。ただひたすら現実から目を背けてべき論をあーうー言っているのみなのです。
 第2章は池谷壽夫師匠の「男子は学校で損していないか!?」。先にも挙げた、帯のフレーズ(「男の方が損」)を意識したタイトルなのですが……論調は「男は理系、女は文系というのは思い込みだ」というもの。その理由は「中高には男の教師が多いのが原因(即ち、大人たちが性別役割意識を知らず知らずに刷り込んでいるというおなじみの言説)」などと妄想を開示するのみ。専ら「(男女に性差があるなど)思い込みなのだ」という前提から話が始まっています。とにかくそこが出発地点なので、いつまでたっても同じところをぐるぐるぐるぐる歩き回るしかないのでしょう。
 文系と理系の区別についてはさしたる興味も知識もありませんが、男子が女子よりおベンキョーを頑張らねばならないのは自明であり、それは専ら男子への抑圧でしょう。
 いえ、そのことは池谷師匠も指摘してはいます。

しかも男子は、そんなこと(引用者註・社会に出てからの再チャレンジなど)はできない経済的・社会的状況なのに、今でも「男性は家族を養わねばならない」と女子以上に思い込んでいるので、なおさらいい大学に入り大企業に就職するという一縷の望みにしがみつきます。
(41p)

 まさにその通りです。男の子の不幸を、まさに的確に表現しています。他にも「男子はスクールカーストなどでもヒエラルキーにさらされて可哀想だ(大意)」といった頷ける指摘(女の子にヒエラルキーがないのかとの疑問も浮かびますが、まあそれは置きましょう)も。
 しかし油断していると「「損」の根っこにあるもの」との節タイトルが立ち現れます。
 そら来た、です。
 そもそも日本が男性優位であり、それが揺らいでいる云々とお説教が続き、

「オレたち損だよな」とひがむだけではダメです。
(53p)

 で話が締められます。
 男たちは損だ、働いたら負けかと思っていると、自らの性役割の不利さについて充分理解しているのですから、後は主夫を養わない女が悪い、或いは女性の社会進出を強行したフェミニズムが悪い、そのどちらかの結論しかないはずなのですが、池谷師匠は「男同士で話しあってお互いの意見や違いを認めあおう(大意)」とか何とかいきなり観念論で問題を放り投げて終わり。何が何だかわかりません。
 ――ぼくは以前、『現代のエスプリ』の別冊、『男性受難時代』*2についてご紹介しました。バブル期に編まれたものであり、「牧歌的な時代に書かれた、古文書」とでもいった評をしたかと思います。
 何しろ均等法の施行された直後であり、いつも言う「女の時代」と呼ばれていたフェミバブルの時期です。当時は「女が元気がいい、男がだらしない」と病人のうわごとのように繰り返されてはいましたが、それもある意味では、バブルの余裕のタマモノでした。
 ところが近年、女性も(フェミニズムの成果として)婚期を逃し、元気を喪い、苦しんでおり、本書にはそうした「女性さま幻想」がすっぽりと抜け落ちています。
 確か「フェミニズム」という言葉も本書では一度も出て来ず(もっとも、それは民主党議員が選挙の時、自分の所属を隠したのと同じ理由でしょうが)、ひたすら男性の苦しみばかりが活写され、しかしそれは男のせいだと繰り返すのみの、書き手たちは大満足だろうが、帯に惹かれて買った者の誰一人として納得のできないだろう奇書に、本書はなってしまっているのです。

*2 夏休み男性学祭り(その2:『男性受難時代』)

 第3章は関口久司師匠の「オトコのセクシュアリティが危ない」。
 ここでは男性の性的欲求が低下していること、また経済的弱者の男性が結婚しにくいことなどをデータを挙げて指摘しており(女性への、年収一〇〇万円の二枚目と年収一〇〇〇万円の冴えない中年と、どちらと結婚しますかとの調査で圧倒的に後者が選ばれたとのデータを挙げており、なかなかいいと思いました)、これはまあ「当たり前の事実」であり覆しようがないことで、認めざるを得ないのでしょう。
 ならば女性の社会進出を取り止めて男性が稼ぐようにするか、女性の意識を強引に変えて主夫を養ってもらうしか手がないと思うのですが、「よりよい関係性を作る教育が必要」とか、「レイプやDVに至らないよう、男が配慮しろ」とか書いて終了。女性に対しては何も言うことがないようです。
 また、性教育の取り組むべき課題と称し、「自己中心的な性暴力文化からの解放」が挙げられております。随分とまた、仰々しい物言いですが、要はポルノ否定ですね。ポルノが性暴力の大きな原因であるとぶつなど平常運転なのですが*3、奇妙なのが恋愛や性についての情報を得るメディアについて、

女性ではマンガや雑誌などが多いのに比べ、男性ではネットなどのアダルトビデオ・エロゲーが主流を占めています
(76p)

 と書かれています。
 え~と、これ、何かソースがあるんですかね?
 女性が読む漫画や雑誌もえぐいと思うけど、それらは問題ないんですかね? 後、女性向けエロも(書店などで買わなくて済む)電子書籍や乙女ゲーなどが売り上げを伸ばしているんですが、ドン無視でしょうか?
 そもそもアダルトビデオってネットなんですかね? いや、ネット配信も多いですが。
 エロゲはまあ、ソシャゲ全盛の今となっては「ネット」というのも間違いはないですが、エロメディアとしてそこまでメジャーなんでしょうか?
 非モテ男性を描写した箇所でも

ネット配信のアダルトサイト「エロゲー」などのオタクで、モテないと自覚し恋愛などからの逃避を語った男子大学生の微妙な心理を紹介します。
(61p)

 などと妙な文章があり、これでは「エロゲー」という名のアダルトサイトがあるように読めてしまいます。関口師匠、恐らくこうした文化について何も知らずに書いてるんじゃないでしょうか
 第4章「生きづらさの根源――ひきこもり問題から考える」では女性の引きこもりもいると念を押しつつも、やはり男性が多く(2:1くらいの割合らしい)、それが男性役割に押しつぶされている故だとの論調。
 南出吉祥師匠による本章はフェミ色が薄く、上の世代が高度経済成長的な根性論で現代の若者を追い詰めているなど、比較的素直に読める箇所が多いのですが、最後の最後にとんでもない爆弾を投下して話が終わります。
 家族以外の仲間とシェアハウスをするなどの試みを挙げ、

 それはとりもなおさず、現代社会に一般化され浸透している男性原理および家族主義圧力を溶かしていくことであり、「男の生きづらさ」を解消していく回路でもあります。
(105p)

 なるほど、「男性解放」のためにはより以上にこの社会を破壊する必要がある。
 それが著者たちの揺らがぬ信念のようです。
「家族主義圧力」が具体的に何を意味しているのかわかりませんが、そんなものはすっかり形骸化していることは、非婚化からも明らかでしょう。
 先に、ぼくはこの本に対して、「現実について行けずに途方に暮れている」的な評を与えました。しかしそれは間違いでした。
 彼らはこの社会の少子化、非婚化、貧困化、男女の不幸を極限にまで推し進め、「計画通り」とほくそ笑んでいる真っ最中であったのです。

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■こんな感じ。声優のアフレコ光景にも見えるぞ!

*3 ただ、師匠が誰相手の性教育を想定しているかはわかりませんが、未成年がポルノを見ちゃいかん、というのは当たり前のことだとは思います。

 第5章は加野泉師匠の「妻はなぜ、夫のがんばりを認められないのか――子育てにおける夫婦の意識ギャップ」。
「自分は育児に参加しているのに妻は認めてくれない」との不満を持つ人物を紹介し、え~と、何かいろいろぐちゃぐちゃ述べて(すんません、もう疲れてきました)、結論は「男は育児しろ(大意)」。男がいかに労働に時間を取られているかについてはほとんど語られません。
 もう、正直、金持ちが「金がありすぎて家が足の踏み場もない」と嘆いているのを横目で眺めながらカップ麺を啜っている気分で、何も言い返す気力が起きません。
 ただ、気になったのは加野師匠が父親の育児参加が重要だ重要だと繰り返していること。それには賛成なのですが、では母子家庭は望ましくないのかと言うと、この人、ものすごく怒るんでしょうなあ。
 終章である第6章は箕輪明子師匠の「男女ともにフツーに生きられる社会――ジェンダーという視点から考える」。
 性別役割分業が戦後強制された、結婚が強制された(「強制」かどうかは置くとして、それらは戦前から普通のことだった気がするのですが、師匠は戦後と書いています)、現代においても男が家事育児に参加するようにはなったものの手伝いレベルに過ぎず、けしからぬ云々とメチャクチャなリクツが続きます。
 5章の加野師匠は「夫の育児参加については手伝いレベルに留めて欲しい、手伝いに留まらず五分五分で取り組んで欲しい、と妻によって要求が違う(ので、どちらを望んでいるのかを汲んで従おう)」と書かれていたのですが、箕輪師匠にかかると手伝いレベルでは許してもらえません。

 男らしさ、女らしさという観念は深刻な被害も生み出してきました。その事例の一つが性暴力です。
(136p)

 そしてジェンダーは社会に作られたものだとの、とっくに論破された虚偽の説を、いまだ本当のことのように語りつづけます。
 師匠は頼まれもしないのに勝手に女を働かせておいて――師匠個人のせいではないでしょうが、フェミニストたちが社会をそうしたことは言うまでもないでしょう――「企業側が過酷な労働を緩和しないから女が大変な目に遭う」と絶叫を続けます。近年のフェミニストたちはしれっとこうした文句を言うようになりましたが、企業社会にしゃしゃり出てきたことが悪いんじゃないのでしょうか。
 いえ、そこを一兆歩譲って不問にしても、じゃあ男たちは今まで大変な搾取に遭ってきたのではないのか、いまだ男たちが育児に労力を割けないことが象徴するように、今も男たちは女たちよりも遙かに凄惨な目に遭っているのではないのか――どう考えたって「男は損」で「男は被害者」以外の結論はないはずですが、箕輪師匠にそうした視点は潔いほどになく、「性別役割分業を見直せ」と絶叫して章は終わります。
 結局、先にも挙げたまえがきにあった「女の就業状況が云々」といった論調が、最後の最後まで透徹され、それだけで本書は終わってしまうわけです。

 いつも言うことですが、「ジェンダーフリーを実践すれば女性差別(も、男性差別)もなくなる、というのは嘘ではありません。「ジェンダーフリーによって性暴力もなくなる」というのも真でしょう。
 しかしそれは、ぼくたちのアイデンティティのコアをなす「男らしさ/女らしさ」を全てリセットするということであり、それが実現した世界では(いや、実現する具体的な方法を彼ら彼女らが語ったことは一度もないのですが)恋愛も、それをテーマにしたあらゆる漫画や映画などの文化も全て、消え果てていると考える他はありません。
 これは、アニメの悪役が「地球の環境を悪化させないためには人類を滅亡させる他ない」と言っているのと同じ、論理的には正しいが、絶対に受け容れることのできない暴論なのです。
 彼ら彼女らは、人類の殲滅を目論む、宇宙から来た侵略者だったのです。
 ――さて、簡単に……と言っていた割には結構な文章量になってしまいましたが、今回はこんなところで。
 本書は男性の窮状と、それに対して一兆年一日のフェミニズムを押しつけるということで、彼ら彼女らの信奉する「オカルト科学」が一切の力を持ち得ないということの証明になっている、極めて良質なガクジュツショ、ということになりましょうか。
 実のところ本書、昨日今日の二日で読了し、ブログ記事も本日一日で書き上げました。
 新書一冊読むのに一ヶ月かけるようなぼくが、です。
 執筆時間の方も最速の新記録です。
 そこからもいかに本書の内容が薄いか、理解できようかと思います。
 何しろ六人もの執筆者がいるのにp159という薄っぺらさ。この薄さで千八百円も取るんだから暴利だよなー。