■基本編

 さて、ツイッターなどでもちょっと話題になったので、既にご存知の方も多いかと思いますが、今回のテーマは「インセル」についてです。
 まだご存じない方のために、表題記事のリード文を引用してみましょう。

アメリカで、「インセル」と呼ばれる一部の「非モテ」が過激化し、テロ事件を起こして社会問題となっている。興味深いのは、そんな彼らのなかにはトランプ支持者が多いということ。彼らのコンプレックスに満ちたメンタルや、「インセル 」という集団の由来を注意深く探っていくと、トランプを生んだアメリカという国の一側面が浮かび上がってくる。

 以上、当ブログの愛読者の方はこれだけでもうお察しかとは思いますが、もうちょっとだけポイントを挙げてみましょう。

・インセル(Incel)というのはInvoluntary celibateの略で、「非自発的禁欲」。つきあう相手がいないので、不本意ながら性的に禁欲を強いられている者のこと。
・彼らの敵は「チャド」や「ステイシー」。これはつきあう相手に不自由しない、モテるイケメン、及び美女のことで、(恐らく前者については)学歴や経済力、社会的地位の高さも加味された概念である。また、そこまでの勝ち組ではなくとも交際相手を持つ者はノーマルならぬ「ノーミー」と呼び、敵視している。
・また、こうしたインセルのひとり、エリオット・ロジャーは女性たちへの復讐を謳い、大量殺人を敢行した。インセルたちは彼を「最高紳士」と称し、崇めている。

 ――以上のような感じでしょうか。
 皆さん、いかなる感想をお持ちでしょう。
 当ブログにご来場いただく方なら、苛立ちとムカつきをお感じかと思います。ぼくも読んでまず、そうした感情を抱きました。ずっとフェミニストたちの珍奇行動珍奇論理にツッコミを入れるという作業を行っていたところに、久々に「攻め」に来られて若干、面食らってもいます。
 しかしよく考えてみると、この記事には既視感を思えずにはおれないのです。
 第一に、日本では十年程前まで、ネット上に「非モテ論壇」というものがありました。端的には、インセルは「アメリカの非モテ論壇」と言ってしまっていいのです。彼らの主張を見ていけば、更になじみ深さを感じます。チャドだステイシーだという物言いはどうしたって、「リア充爆発しろ」というちょっと前の流行語を想起せずにはおれません。
 第二に、「社会的に不遇な男性のテロ」すらも、ぼくたちは既にいくつも実例を見聞しているのです。宅間でありネオ麦茶であり加藤であり、東海道新幹線刃物男であり……これらの人々は既に「無敵の人」といった言葉で、表現されるようになっています。
 つまり、そもそもぼくたちは似た現象を、とっくに通過してきているのです。ぼくたちが風邪を完治したころ、ようやくアメリカさんもクシャミを始めたと、ただそれだけのことなのです。
 敢えて言えば、ぼくたちはテロる前に自殺してしまうケースがほとんどであるため、日本ではアメリカほどに問題が可視化されなかった*1。また、上にも挙げた日本での類似の事件の場合、非モテの犯罪という側面を(マスコミが)あまりストレートに推した印象がない。いや、むしろそこを当初は積極的に推していた加藤の事件ですら、すぐに「派遣の起こした格差犯罪」といったものになっていった感触がある。これはモテ以上に、今の日本の男性がパンにもこと欠く有様になったせいでしょう。
 また、本件からは容易にドクさべが連想されますが、あの、バカ丸出しの彼ですら「男性差別」というロジックを持ち出している。日本人の方がわずかばかり頭がよく、「女にモテたい!!」とストレートに叫ぶことにためらいを覚える人種であった、ということが言えようかと思います。もちろんこの「頭のよさ」は「自らの感情をストレートに発露させることができない」という欠点でもあるのですが。
 ――以上、「■基本編」と題したように、件の記事を要約すると共に、常識的な(先に書いたぼく自身のスタンスから離れ、できるかぎり中立的に見た)記事の感想を述べてみました。

*1 もっとも、ではアメリカではこれらの事件が本当に多いのかとなると、ぼくもわかりません。記事は「続発」と煽っていますが、件の記事に挙げられた例は「元祖」と呼ぶべきエリオット・ロジャーの引き起こした2014年の事件を含め、四件。四年で四件というのが大きいのかどうか、何とも言えませんが、アメリカではそれ以上に圧倒的な殺人事件、レイプが起きていることを鑑みてみるべきでしょう。

■応用編

 さて、ここからは件の記事に対する「ぼくのスタンス」からの意見を真っ向からぶつけてみたいと思います。
 上に書いたリード文を見てもわかる通り、八田師匠は彼ら「インセル」をトランプ支持者、反フェミニストと関連性があるのだと指摘しています。もっとも、それは当たり前としか言えず*2、また当初(本論の半ば辺りまで)は比較的中立的な書き方がなされ、師匠の「本性」はまだ見えません。
 しかし本論は、中盤辺りから奇怪な主張を始めるのです。
「インセルは、ピックアップアーティストと同じなり」。
 何を言っているのかわからないと思います。
 もちろんぼくにもわかりませんが、このピックアップアーティストとは言ってみれば「ナンパ師」のような存在であるそうです。
 そんな馬鹿な! そもそもインセルはチャドを何よりも憎んでいるではないか!!
 読んでいくとアメリカには、どうもただのナンパ師というよりは「ナンパ術の一流派」として「ピックアップアーティスト運動」と称されるものがある、ということのよう。そしてまたこれの参加者の多くはコミュ障である。まあ、要するにこの運動に参加する者はモテというよりは非モテであり、むしろチャドよりインセルに近い存在である、ということのようです。日本で言えば恋愛工学のようなものなのでしょうか、よく知りませんが。
「インセルの源流はピックアップアーティストである」というのは八田師匠自身ではなく、アメリカの反レイシズムNGOの主張のようなのですが、しかし本論を見る限り、直接の関連があるというわけではなく、「タイプが似ている」というだけのことのようです。「泥棒を捕まえたら貧乏だったから、貧乏人はみな泥棒だ」と言っているのと全く同じ、暴論です。日本で言えば「オタクは全員ペド犯罪者」くらいの偏見ですね。
 もう一つ、このナンパ術の極意はある種、女性の心理を操り、ゲームとして女性を口説くことであるらしく(師匠はこの運動を自己啓発運動に近いものだと説明しているのですが、それはこの運動がある種の女性観を学ぶという性格を持っているからなのでしょう)、そこには女性嫌悪があってけしからぬそうですが、「だから、インセルも同じ女性観を持っているに決まっているのだ!!」と言われても、困ってしまいます。
 当ブログをご愛読の方はおわかりでしょうが、この種の(フェミニズムを援用した)ロジックは、いわゆる普通の男女ジェンダーを基準とする者を、全員――否、その中から自分の嫌いな者たちだけを恣意的にセレクトして――悪者呼ばわりすることのできる、万能理論です。
 そもそもナンパ術がハウツーに特化していけばいくほどゲーム的になるのは当たり前と言えば当たり前だし、そしてまたそのナンパ理論に文句があるのであれば、「自分より上の男性」に性的魅力を感じる女性の「ジェンダー規範」とやらにまず、文句をつけていただくのが順序というものでしょう。ぼくもいわゆる「ナンパの達人」的な人物に話を聞いた時、「口説き文句など言わずとも、顎を突き出して相手を見下ろすだけで女はこちらについてくる」と豪語されたことがあります。
 結局、こうした女性観は「ある種の真実」と言わざるを得ない。もちろんインセルやピックアップアーティスト運動がそれをあまりにも極端に認識している、との可能性はあるでしょう。しかしどっちにせよそれを全否定しようとする師匠たちの方はより偏向しているのではないでしょうか。
 即ち、件の記事はいまだ天動説を唱えるマイノリティである八田師匠が、世間一般の中から弱者をセレクトし、「ネトウヨは地動説支持だ、貧乏人は地動説支持だ」と泣き叫んでいるだけのものなのです。
 件の記事の後半で、八田師匠はさらに不可思議な主張を展開します。
 後半では延々とトランプ批判(否、トランプ支持者批判)が繰り広げられるのですが、彼はそこでこんなことを言うのです。

さて、トランプ支持層はバラバラと言ったが、彼らに全く共通項がないのかと言えばそうでもない。一つの切り口は、「相対的剥奪」(relative deprivation)ではないかと思う。最近のカリフォルニア大学の研究者による研究で、トランプ支持者の特徴の一つとして挙げられていた。
(中略)
ようするに、昇進の有無そのものや絶対的な格差よりも、主観的には「当然」昇進すべきだったのに、実際にはなぜか昇進できなかった、というような相対的な不遇のほうが、深い不満をもたらすのである。

 トランプ支持者と同様、インセルは、「女性は、当然得られるはずのものであったにもかかわらず、得られなかったから許せぬと憤っている存在だ」というのです。
 はて、どういうことでしょう?
 少なくともぼくたちの先代は結婚することが「当然」でした。アメリカの状況は知りませんが、まあ、ぼくたちとそこまで変わっていないはずです。となると、「彼女」を「当然得られるはずのもの」と認識することがそこまでおかしなこととも思えない。しかし、そんな彼らの認識を、八田師匠は絶対に許せぬ不道徳な考えであるかのように言い募ります。オタクの自己承認欲求を満たす作であるから『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』が許せぬと絶叫していたペトロニウス師匠*3を思い出します。

この「当然」には、本来自分が得られるはずだったものを(多くの場合自分よりも劣っているとみなす相手に)不当に奪われた、という感覚も含まれる。

「当然」握るはずだったアメリカという国の主導権を黒人やヒスパニックに奪われる白人、中国やメキシコに仕事を奪われて「当然」得られるはずだった経済的果実を得られなくなった中流層、移民対策や社会保障のせいで「当然」得られるはずだった金を税金として持って行かれる富裕層。

 あー、はいはい。
「自分よりも劣っているとみなす相手」であろうとなかろうと、人間が得られるべきゲインを得られなかった時、不当に感じるのは当然です。上のロジックは富裕層を想定することで誤魔化していますが、実際には下流に転落した中流層にすら、師匠は「不満を感じるとは生意気な!」と言っているも同然なのです。
 彼ら、ホワイトトラッシュやインセルにとって有色人種や女性が「自分よりも劣っているとみなす相手」なのかどうかは疑わしく、むしろ師匠のロジックの正当化のために持ち出された仮定であるようにぼくには思われるのですが、一つだけ言えるのは、「自分よりも劣っているとみなす相手」に「死ね」と言っているのは師匠ではないでしょうか。
 八田師匠はトランプが大統領になったことが悔しくて腹立たしくてならない。
 ならば彼が何故支持を受けたかを考えればいいのに、師匠はそれができない。彼の支持層をあげつらい、「こんな、俺よりも下のヤツのせいで!! 俺の子分となって反トランプ運動の兵隊となるべきなのに、こいつらのせいで!! 貧乏人のくせに!! モテないくせに!!」と絶叫を続けるのみ。
 そう、八田師匠はフレンチとメロンを食べながら下々の者は脱成長せよと絶叫する内田樹師匠の、牛丼の安さは日本型福祉だから若者は幸福であると絶叫する古市憲寿師匠の、オタクはリア充だ、リア充だからリア充なのだと絶叫する海燕師匠の、自分は勝ち逃げしておいてみなで貧しくなろうと絶叫する上野千鶴子師匠のお友だちでした。
 自分たちは十全にゲインを得ておきながら、弱い者に対しては、人間が本来持っている、当然の欲望を全否定する。
 それこそが彼ら彼女らの目的でした。前回記事で指摘したように、彼女らが弱者男性のフェミ批判を「女を宛がえと要求しているのだ」と曲解せずにはおれないのも、それが理由でした。
 フェミニストは、そしてフェミニズムを支持するリベラルは、そうした欲望を否定することを目的とした、「比喩でも何でもない、本物の悪魔」だったのです。
 実は本論は、ニコ生で岡田斗司夫氏も採り挙げていたのですが*4、そこでの彼の評価は、「こうしたものは嫌いなものにレッテルを貼ることを目的としたものであり、あまり好きになれない」といったものでした。岡田氏にここまで言われているのに、オタク左派の連中はいったい、何をやっているのでしょうね。

*2 八田師匠はピックアップアーティストに熱心なトランプ支持者がいるぞとブチ切れていますが、トランプがホワイトトラッシュを救うことをスタンスにしている以上、それは当たり前ですし(そもそも彼が大統領だというのは彼の支持者が多かったということですし)、フェミニズムを積極的に支持する人というのが現代では少数派ということも、師匠にはおわかりにならないのでしょう。
*3「俺の妹がこんなに可愛いわけがない
*4 #239裏 岡田斗司夫ゼミ(4.21)

■総括編

「マリッジカウンセラー」というのがあります。
 要するに夫婦間の揉めごとを仲裁するのが専門のカウンセラー。
 星新一のアメリカ漫画を紹介したエッセイ『進化した猿たち』では、このマリッジカウンセラーを題材にした漫画に一章が割かれているのですが、その一つにこんなのがありました。夫同伴でやってきた夫人がカウンセラーに延々延々としゃべり、やっと一息ついて曰く。
「以上が私の言い分です。これから夫の言い分を、私が説明しますわ」。
 ――何というか、この「しますわ」という女言葉、今となっては漫画でもお目にかかれず、まさに隔世の感という感じです。しかし、そこまで「女性の女性ジェンダーからの解放」が進んだ今でも、この漫画の面白さは全く損なわれることなく、ぼくたちに伝わってくる。「女性の女性ジェンダーの恣意的運用」はこの頃も今も一切、変わっていないことがよくわかります。
 さて、この漫画を何故、ご紹介したか。
 それはこの漫画が、「ぼくたちの社会」の戯画だからです。
 前回、「男性学」の書である『男性問題から見る現代日本社会』をご紹介しました。同書の主張を一言で表せば、「女性の言い分を、今までご紹介してきました。ついてはこれから、男性側の言い分を、私たち(女性)が説明しましょう」とでもいったものでありました。
 いえ……ややこしいのは、あの本の著者の多くが男性であった点なのですが。
 しかし「男性学」とやらいうガクモンは、ただひたすらにフェミニズムに平身低頭することだけが男の性役割である、と説くものです。即ち、あの本の著者である男性たちは、実際には女性であるフェミニストたちの代弁者に他なりません。
 同書は「(女より)男が損だ」という「ネットに溢れる弱者男性たちの声」をすくい取るという、ある意味、希有なことを目的とした本でした。
 しかしそのすくい取り方自体が、既に男性側からなされている指摘(フェミニズムの欺瞞、例えば女性が男性を養わない以上、女性の社会進出に旨味はないことなど)を全てスルーすることで成り立っているという、言わば「男性側の声に反論するフリをして、実のところ男性側の声を聞いてすらいない」という偏向しきったものでした。そして、そうしたフェミニズムへの批判を全てスルーした後、ひらすらフェミに平身低頭せよと高説がなり立てる――それは上のマリッジカウンセラーを訪れた夫人と、何ら変わるところがありません。
 ここには「男性学」の不誠実さ、「フェミニズム」の思想的ダメさ以上に、重要なポイントが隠れています。
 それは「この世は、先の漫画のマリッジカウンセリングルーム同様、女性だけがしゃべることを許されたしゃべり場である」との事実です。
 これはある意味では、男性ジェンダーに深く根差した、解決しがたい問題でもあります。
 ぼくは拙著で、男性は三人称性の、女性は一人称性の主であると形容し、ワレン・ファレルは「男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった」と指摘しました。これはまた植木不等式氏による『うるさい日本の私』のレビューにあった「男は私的な怒りを発することを許容されない」との指摘とも重なります。
 そして、そうした「ぼくたちの社会のお約束」がインセルを生み出したのです。
 ちょっと前、ドクさべを批判した記事でも書きましたが*5、男は自らの感情を発露することが許されないため、それを抑圧し、蓄積していく。追い込まれ追い込まれ行き場を失った者が、アメリカだと逆切れを起こしてテロに出て、日本だと自殺する。男性の自殺率の高さは、そこが原因でした。
 当記事を読む限り、ぼくはインセルをあまり評価できません。
 しかしそれはあくまで当記事を読む限りであり、それは丁度「夫人が代弁した亭主の言い分」以上のモノではありません。前回記事にも書きましたよね。町山智浩師匠が「メニニズム」について書いていましたが(これもまたインセルとほぼ同じと考えられているものですが)それがどこまでアテになるか疑問であると。
 もちろん、ぼくもここでちょっと手間をかけてインセル自身の発信している情報に触れればいいわけですが(youtubeなどで発言しているようです)、仮にぼくがそれをしてここでご紹介しても、それが「表の社会」に採り挙げられるかとなると、はなはだ疑問としか言いようがない。
 つまり男は、その「男性ジェンダー」の罠に縛られ、自らの声を上げない。仮に例外的に上がった声があっても、世間の方がそれを許さない。その合わせ技で、ぼくたちはただ「悪」として断罪されるしか、なくなっているわけです。
 ――といった辺りがまあ、インセルについてのぼくの私見ということになりますが……さて、実のところ八田師匠の記事には続編とも言うべきものがあります。
 さんざっぱら腐した師匠ですが、何というか、この続編では師匠の目論見が男性たちの苛烈な現実に脆くも崩れ去る……とでもいった想定外の展開を迎えます。
 今回敢えてほとんど言及しなかった本田透――即ち、アメリカの先を行く日本人男性の到達し得た最先端の見識――についての話題も交え、更なる地平へと、あなたをご招待することができるかと思います。

*5 ドクター差別と選ばれし者が(晒し者として)選ばれた件