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 さて、またしばらくは上野千鶴子師匠の記事の再録となります。
 再録に辺り、多少の加筆修正がされていることを、お含み置きください。
「レッドデータコンテンツ」の方はまた、ちょっとずつうpしていきますので、そちらが目当ての方(がいらっしゃるかはわかりませんが)は時々チェックしていただければ幸いです。
 さて、『WiLL online』様ではジャニーズ関連(Colabo関連でもある)記事が掲載されています。
 未見の方はどうぞチェックを!

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 本書は2011年に出版されたもので、要するにフェミニズムの四十年に渡る歩みを、上野千鶴子師匠の文章を時系列で並べることで概観しようとの、「お徳用」なご本。
 注目したいのはDV法関係についてですが、その前に概要を掻い摘んでご紹介させていただきます。
 前半部分に収録されているのは80年代に書かれたもの。それを読んでいて印象的なのは、「我々は男並みに落ちることはしない」的なマニフェストが繰り返し繰り返しなされることです。イギリスのサッチャー首相は「男並みに落ちた」女性なのだそうです。気に入らない女性は全てこう形容すれば片がつくのですから、楽なものですね。
 一例として(1999年の文章なのですが、意味あいとしては一番まとまっていると思うので)ちょっと引用してみると、

 現実には男なみにがんばっても男なみには報われないことはだれでもよく知っている。それなら、もっともっとフェアな競争を、ってフェミニストは要求していることになるのだろうか? まっぴらごめんだ。その結果は「男もすなるカローシというものを女もしてみんとするなり」だった。

 などとおっしゃっています。
 おやおや、「男は過労死に見あうだけのメリットを独占しているのだ」とおっしゃっていたこと(「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」『日本のフェミニズム別冊 男性学』)はすっかりお忘れのようです。
 見ていて感じるのは、彼女らの「女」に居座った、男への上から目線です。
 当時は「女の時代」などといった惹句が総合誌に毎号、踊っておりました。
 そこでは「男たちが独占していた企業社会に『いきいき』『のびやか』『かろやか』な女性たちが進出することで素晴らしい世界が訪れる」的な軽薄な展望が、真顔で語られていたのです。
 要は均等法が通った時代の文章なので、「男並み」は達成された、さあこれからは「男以上の旨味を味わってやるぞ」との余裕と楽観とが、当時の彼女らにはあったのですね。が、大変残念なことですが、その未来予測は今となっては、無残に外れた、と言わざるを得ないでしょう。
 ぼくは拙著においても、フェミニズムの失墜ぶりについて大いにからかうような文章を書きました。本書を読んでいると思わず上野師匠を「ねえ、今どんな気持ち?」とからかいたい気持ちも沸いては来ます。とは言え、よく考えればこちらも女性をからかってる場合じゃあ、ないわけです。フェミニズムは女性たちも大いに不幸にしましたが、男性側はその数千、数万倍、不幸にしたのですから。

 さて、最初は景気のいい発言を繰り返していた本書ですが、三分の一も読み進め、九十年代の文章になってくると少々勢いが落ち、更にゼロ年代に至ると、カラーは明確に変わっていきます。
 ゼロ年代前半は、フェミニズムやフェミニズムが推し進めてきたジェンダーフリーに対する批判が盛んになった時期でした。この時期の上野師匠は、そうした批判をただひたすら、「バックラッシュ」だ、「反動」だと称して、ヒステリックに書き立てるばかりになります。
 ぼくは今まで、フェミニストたちが「ミソジニー」、「ホモソーシャル」というフレーズを濫用することに対してかなりしつこく絡んできました。しかし考えれば「バックラッシュ」も「反動」も、それと全く同様な思考停止ワードです。そもそもこんな言葉、「自分たちの側こそが絶対的な正義なのだ」という大前提なしにはまず、出ては来ないでしょう。こういった言葉を不用意に、涼しい顔で連発できる心臓は、大したものだという他はありません。
 さて、ここでようやっとDV法関連の話題です。
 本書では2008年1月6日に起きた、つくばみらい市における男女共同参画講演会が直前に中止されてしまった件が、「バックラッシュ」の例として繰り返し採り上げられているのです。そもそもこの反対運動は改正DV防止法の施行を目前に盛り上がっていたものであり、その点については上野師匠も言及なさっています。
 が、師匠はその反対派の意見を「誹謗中傷」「威嚇」「暴力」と言い募るばかりで、DV防止法は冤罪事件を起こしている悪法であるとの反対派の意見を一切紹介していません。
 これは、いささかアンフェアなのではないでしょうか。
 しかしこの人たち、同じ「市民運動」でも自分たちのやることは「キヨラカな草の根運動」、反対派のやることは「暴力」なんですね。
 まるで、どこかの女の子と、共産党とつながっている人みたいですね。
(文中では呆れるくらいに暴力、暴力と繰り返されているのですが、はて具体的にはどんな暴力行為があったのか、には言及がありません。反対派の一人が別件で有罪判決を受けたことはあるらしいのですが……)
 同様に市立図書館がBL本を「排除」したことも当然、「バックラッシュ」です(これについては「今さら堺市立図書館BL本問題」を参照)。
 図書館にエロ本置いちゃまずいだろ、というだけの判断を、ひたすら「ホモフォビアホモフォビア」と繰り返し、セクシャルマイノリティを人質にとって自分たちを正当化するその手つきは卑劣の一言です。
 ちなみにふと思いついて調べたのですが、件の図書館には『YES・YES・YES』が置かれておりました。恐らく他の図書館でも、この本が意図的に排除されたことはないでしょう。つまり「同性愛描写のある書籍は排除される、同性愛者差別だ」というフェミニストたちの言いがかりは最初から根拠がなかったわけです。
 更に、ここまで表現の自由を正義の御旗として振りかざしているにもかかわらず、フェミニスト仲間である渡辺和子*さんの追悼文では、彼女が『まいっちんぐマチコ先生』の反対運動に精力的に取り組んだ人物であることが好意的に紹介されており、いよいよ師匠のお考えが理解不能になります。
 まるで、どこかの女の子と、共産党とつながっている人みたいですね。
 彼女の中ではきっと、
・女性が胸を触られたり、着替えを覗かれたりする漫画は「セクハラ」。
・幼い男児が、中年男性にレイプされまくる小説を図書館から排除することは「ホモフォビア」。
 ということなのでしょう。
 まるで、どこかの女の子と、共産党とつながっている人みたいですね。
(一応言っておきますと、図書館に置かれていたBL本にそのような内容があったかどうかは、ぼくの知るところではありませんので、念のため)

* 余談ですがこの方、(同姓同名のフェミニストが他にいない限りは)「「母なる大地」が強姦され、環境が破壊され」「広島に爆弾を落とした人は男だった。」など電波全開のフェミニズムポエムを書いた方だと思われます。

 最後に。
 この本で一番面白いところがどこかと聞かれたら、何を置いても「初出一覧」を挙げたいと思います。
 八十年代には『朝日新聞』『朝日ジャーナル』『サンケイ新聞』とそうそうたる紙名、誌名が並んでいたのがゼロ年代に至るや『信濃毎日新聞』『創(笑)』と何だか微妙なラインナップに。
 この企画、上野師匠に対するいじめだったんじゃないでしょうか。