ここしばらくずっと「男性学」関連の記事の再録を続けておりました。
いい加減、長すぎると思ってはいたのですが、まだ拾い損ねているものがあることに気づきました。それが今回お届けする、杉田俊介師匠の著作。2016年11月のものです。
まあ、小山晃弘氏と藤田直哉師匠のバトルのおかげでまたにわかにタイムリーになってきたこの問題、もう少々おつきあいいただけると幸いです。
* * *
杉田師匠は『シン・ゴジラ』を作っちゃいけなかった映画であると称し、Togetterでフルボッコにされた御仁です。要するに「政治家が格好よく描かれているからケチカラン」「巨災対が男ばかりでホモソーシャルだからケチカラン」みたいな(詳しくは忘れたけれど、多分そんな)ことを言っていた御仁ですね*1。
何しろ本書はタイトルが「非モテの品格」なのだからお察しです。
「品格を持ち、非モテでも女性様に逆らわずに生きていこう、さもなくば死ね」とのポリコレしぐさが炸裂するのだろうな……そう思いながらページをめくると。
本文の最初のページで、読者は驚くべき記述にぶち当たるのです。
冒頭でまず、真っ先に、自殺してしまった知人についての述懐がなされます。その知人は妻に浮気された挙げ句、離婚し、発達障害児を抱え、しかもその妻にはカネを無心され続けて、しかしついぞ妻を責めなかったと言います。
その人が自ら命を絶ったときの、僕の周りの人々の反応――「男のプライドを捨てられたらよかったのに」「あの子だって、お父さんが生きていてくれることを臨んでいただろうにね」。
僕は、あのときの、はらわたをえぐられるような違和感を、今でも忘れられない。
そうじゃあないだろう。なんで、自ら命を絶ったときにまで、「男であること」を責められなきゃいけないんだ。
(中略)
悔しかった。
やりきれなかった。
(8-9p)
上の文章での師匠の憤りを、ぼくは全面的に支持します。
分けても、「男のプライドを捨てられたらよかったのに」という声が「男性性を責める言葉であり、残忍なものだ」とする認識は重要です。それって例えばですが、着物姿でノーパンの女性が火災から逃れようとする時、裾が捲れ上がるのを恥じらって転落死してしまった*2のを「女のプライドを捨てればよかったのに」と言っているようなものですよね。もちろん、一般論としてプライドを捨ててでも生きる道を選ぶことが望ましいとは、両ケース共に思いはするものの。
男を女より上位にいるものであると思考停止し、そのネガティビティについては「既得権益を捨てないから反面給付としてついて回っているだけだ、ざまあみろ」と切り捨てるのがこれまでの「男性学」でした。しかし杉田師匠は「プライドで自己を守らざるを得ない」ほどに追い詰められている男性ジェンダーの行き詰まりに疑問の萌芽を感じた、女災理論へと一歩近づくことのできた人物なのです。
何しろ師匠は
悔しかった。
やりきれなかった。
とわざわざ改行を繰り返しています。
これは枚数を稼いで原稿料を多く取ろうという計算などでは断じてなく、彼の中の憤りを表現したいがためのものであるのです。
読み進めると、本書には自身の子供が男の子でなければいい、男の子に産むなんて申し訳ない、とまで語る箇所があります。
男なんてかわいそうだ、自分みたいに鬱屈し、悶々とする人生を送るなんて、気の毒だ。くだらない能力や権威の競いあいや、男としての自尊心に苦しめられるに違いない。どうしてもそうとしか思えなかった。
(p45)
このページの次には近しい述懐がなされる福満しげゆき氏の漫画が引用され、いかに男性のミサンドリーが激しいかを強調します。
福満氏のイラストはカバーにも登場しますが、これは田中俊之師匠の手法を真似た、漫画家の人気にあやかろうという計算などでは断じてなく、彼の中の悲しみを表現したいがためのものであるのです。
いずれにせよ自身のミサンドリーを自覚し、内省する「男性学」者を、ぼくは初めて見ました。
「ルサンチマンは疚しい良心である」とのニーチェの説を引用し、男女平等を唱える男性にこそ女性にモテないルサンチマンが潜んでいる(マッチョな男性という悪者をやっつけたいという情念に取り憑かれている)と指摘するのも秀逸です(112p)。今までもしつこくご紹介してきた「男性学」者の、例えば田中俊之師匠の著作から滲み出てくるのは、自分以外の男性への昏くおぞましい憎悪ばかりでしたから。
*1「 『シン・ゴジラ』は一番作っちゃいけない作品だったのでは」
*2 白木屋の大火災。今では都市伝説とされることが多いのですが、ネットでぱらぱら見た限り、「転落死した女性はいない」「転落死した女性はいたが恥じらい故かは疑問」と根本的なところですら説が分かれており、本当のところがどうだったのかよくわかりません。
――ただし。
最初の引用に(中略)とありますが、実はそこには以下のような文章が挿入されています。
その人たちの見かけは優しい同情は、たとえば、男に逃げられ経済状況から中絶を選んだ女の子に対して、「何も子どもを殺すことはなかったよね」と外野から同情するような振る舞いと、何が違うのだろうか。
(9p)
う~ん、それって最初の男性の件と比較する例としては、どうなんでしょう。
まず、現行では中絶そのものが法的に認められ、現実にバンバン行われているのですから、ぼくは上の女の子を責める気にはなれません。
しかし、それと先の男性の例とでは全然違うでしょう。
子供が障害を負っていることはまあ、男女差とは関わらない部分なので見逃してあげましょう。
ですが、妻が男と逃げ、しかもそのクセに金を無心に来るという状況を男女逆転してみたら、当然、男の方が何倍も苛烈なバッシングを受けるはずで、それを考えてみれば、男の窮状は伺い知れるはずです。
しかし何と言っても、一番違うのは師匠がまさに指摘しているように、「男のプライドを捨てられたらよかったのに」という声の残忍さ、「男であること」を責められることの理不尽さでしょう。女性はそんな風には言われないのですから。繰り返しますが、現状の男性の立場は、女性が恥じらいで焼け死んだのをバカにされるのと、同じような状況にあると言えるわけです。
い……いえ、そうは言っても師匠は男性性のネガティビティに目を向けようという、希有な視点をお持ちの方です。気を取り直して続きを読むことにしましょう。
男たちには、たくさんの社会的な既得権がある、無数の上げ底がある。ごちゃごちゃ言い訳するのではなく、そのことを、しっかりと自覚して欲しい。加害者である自分たちの精神と生活習慣を変えてほしい。優しく葛藤するふりや自己反省のポーズなんて、もういらない。
(18p)
れれっ!?
「優しく葛藤するふり」というのは師匠の振る舞いを指すべき言葉ではないでしょうか。あ、「自己反省のポーズ」を見せている素振りはありませんでしたが……。
しかしいずれにせよ、こうした言葉を浴びせる必要性があるのは、師匠を含むリベラル男性だけのような気が、ぼくにはします。
それ以降も師匠は男性の自殺者が女性の二倍であるなどのデータを提示した直後、「日本人男性たちの様々な優位は依然として揺らいでいない。」などと言い出すのですから(32p)、お察しです。
フェミニズムとは、「男性の生命は女性のそれよりも価値が低い」との前提を導入することで成立している思想ですが、どうやら師匠もまた、その思想の影響を極めて強く受けている人のようです。
本書には「男性には圧倒的に自身を語る言葉がない」との極めて秀逸な指摘があるのですが、本書自身がそれを身をもって証明し、また「言葉を語ろうとした男性」を殴りにかかるスタイルを取るという、実に奇妙なことになっているのです。
ぼくは今までも他の「男性学」者の著作を紹介し、「評価できる主張もしているのに、その主張とフェミニズムとが絶望的な齟齬を来していることに、彼らが気づかない理由がさっぱりわからない」といった評をしてきたかと思いますが、そうした「男性学」者の中でも、杉田師匠はその分裂が一番著しい方ではないでしょうか。
上にあるようにミサンドリーに疑問を突きつけながら、別のページではフェミニストたちの口調そのままに男性を絶対悪と規定し、男性を憎悪し、男性に男性性を捨てよと迫っているのですから、何が何やらさっぱりわかりません。
何だか、キカイダー*3が五分ごとにギルの笛の音が聞こえたり聞こえなくなったりで、正義になったり悪になったりを繰り返すコントでも見ている気分にさせられます。
以降も赤木智弘氏の「弱者男性は弱者女性より弱い(大意)」という指摘を「ミソジニー」の一言で切って捨て、よりにもよって「男の方が正社員が多い、男が優位だ(大意)」などと続ける無能無策ぶり(73p-)。赤木氏の主張は「専業主夫になれる男の数は限られている」というものなのだから、噛みあってないどころの話ではありません。
こうした「あるものが見えず、ないものが見える」のはフェミニスト(やリベラル)共通の特徴です。前回もそれを戯画化して描いてみましたし、実例を何度もお伝えしているかと思いますし、実際にそうした場に立ち会い、唖然となさった方も多いのではないでしょうか。
それ以降もDVは男らしさにこだわるが故の病とか、もう耳にタコができたどうでもいい話のオンパレード。
ところがページをめくると何だかナルシーな述懐と共に、「自分がモテなくて辛いと零すとたちまち『女性に身勝手な要求をしているからだ』『男性権力だ』『ミソジニーだ』などと叩かれてしまう(大意)」などと平然と言い出すのだから、びっくりです(114p)。
「あるものが見えず、ないものが見える」ために、ブーメランに気づくことが、一生ない。
他者に対しては男性の優位性について説き、反省しろと高圧的に繰り返しながら、師匠は返す刀の峰で、自分の辛い辛い半生についておセンチな述懐を重ねます。この種の「男性学」者は「カムアウトはよいこと」という信念をお持ちで(今まで男性は感情を顕わにしてこなかった、というリクツが前提されており)、自らのルサンチマンを自己憐憫に満ちた筆致でお書きになるのが常です。田中師匠の著作にも、そういう箇所がありましたよね*4。
師匠も男性に必要なのは自分の殻に閉じこもる「内省」ではなく「開かれた問い直し」だとして(p123)、まあ、何か、自分のルサンチマンとかコンプレックスとかを実に饒舌に語り続けます。
しかしその結果、出てくる結論は「男らしくない男である自分を受け容れよ(大意)」といった、観念的でふわっとした精神論(134p)。
そう言われたところで、受け容れたら仕事に就けるわけでも、彼女ができるわけでもないのは自明のことです。黒屋ぶるー氏が
弱者は男性性から降りれば救われる、みたいな事は言ってたが、その「救い」ってのが「家庭を作らず女を欲しがらず独りで生きていけ」という、出家して俗世から離れるのと大差ないものでしかなく、最早宗教の管轄であって社会運動、政治運動の存在価値を自ら否定するものだったんだからもうね…
と言っていましたが*5、本件もそれが完全に当てはまります。
杉田師匠はご高説賜っているワリに嫁も子供もいらっしゃるのですが、本書もやはり、フレンチとウナギを食いながらの低成長礼賛にしか、ぼくには見えません。
また、ここでは引きこもりが負け組であるが故にかえってプライドから一発逆転を狙ってしまう転倒について書かれており、それはまさにその通りなのですが、そんなの、高齢未婚女性もいっしょのはずで、要するにプライドなんて男も女も持っているものであり、「マチズモに囚われた愚かな男」だけが一方的に存在しているわけでは全くない、そこが師匠にはおわかりにならないのです。
左派の地に足のつかない空論は、時に「人権ポエム」といった揶揄をされますが、本書の妙に情緒的な記述もまたそれに近く、第二章の補論辺りになると、とうとうホンモノのポエムと化してしまいます。
誰からも構われないからこそ、誰からも愛されずに孤独だからこそ、誇り高く生きていく。気高く生きていく。
誰も傷つけずに。優しく。
不要な自己卑下もせずに。
自分の体も大切にして。
どうか、君自身を嫌悪したり、自信を失ったり、自らを傷つけたり、殺したりすることがないように。
いつか、ゆっくりと、この世界は変わっていくはずだ、もっとずっと優しくなっていくはずだ、と信じて。
(151p)
僕はそれを祈っている。
その日は来る。きっと来る。
そんなふうに祈っている。
(152p)
本当に、比喩でも揶揄でも何でもなく単なるポエムです。
結局、杉田師匠は「フェミニズムは正義」と脳に刷り込みを受けてしまい、その後で我に目覚めてしまったがため、一歩も動けなくなってしまった人なのです。
先のキカイダーの比喩に立ち戻れば、師匠はものすごいポンコツな良心回路しか与えられなかったロボット、なのです(漫画版のゴールデンバットがそうしたキャラですが、このゴールデンバットがそれ故にか、実に饒舌に詭弁を弄して自らの行動を正当化する自己愛的なインテリキャラだったのは何だか示唆的です)。
それは恐竜の化石を見つけて「神様が動物を作った時の失敗作だ」と言っている中世の人のようでもありますし、溶鉱炉を親だと刷り込まれ(そんなことが可能かは知りませんが)、溶けた鉄の中に自ら飛び込んでいく雛のようでもあります。
なるほど師匠にしてみれば、確かに進退窮まって「祈」る以外のことをやりようがないなあ、としか言いようがありません。できれば祈りだけにして、新書など出さずに済ませていただければ、世に害毒を流すことも少なかったかと思うのですが……。
*3 悪の組織「ダーク」にさらわれ、破壊工作用アンドロイドを作らされていた光明寺博士がダークを倒すため、「良心回路」を内蔵して製作した正義のロボット。ただし、ダークの首領、プロフェッサーギルが超音波笛で指令を発すると、笛の音と良心回路の相矛盾する命令に葛藤し、悩み苦しみます。
*4 『〈40男〉はなぜ嫌われるか』
*5 (https://twitter.com/kuroya_blue/status/796367472270176256)
さて、ポエムを吟じてご機嫌になったしかる後には、第三章「男のケアと子育てについて」が控えています。
この最終章は(介護職をやっていた自身の経験から)何か、介護の現場でこそ「新しい男性性」の構築が可能ではないかとか言いながら、どうでもいい話がダラダラ続きます。自閉症の青年がドングリをくれて、彼がドングリを貨幣だと思っているらしいの何のという話とか。何かと思えばどうも障害者に教えられた、的な話がしたいご様子なのですが、何を教えられたのかが、ぼくの頭が悪いのか、どうにも伝わってきません。
他にも若く、中性的な外見をした重度障害者の男性と添い寝してドキドキしたの、赤ん坊である息子に乳首を吸われてドキドキしたのと繰り返し、どうも性の揺らぎみたいなことが言いたいご様子なのですが、ぼくのポリコレセンスが低いのか、「そうですか」以上の感想がありません。
後は「自分の子供の存在が自分の頑張るエナジーだ」とか何とか、そんな話。どうでもいいけどそれ、昭和のお父さんに一番言われてるから。
見ていてこの三章はそれまでと全然噛みあっていません。こうした本はあちこちの雑誌で書き散らした記事を強引にまとめて作られることがあり、その弊害が現れたとも取れますが、ぼくの目からは師匠が(ミサンドリーという問題点に着目したところまでは立派だったものの)結局は男性問題に対して何ら語る言葉を持っていないことを露呈させてしまったことの証明のように、見えてしまいます。
上の「障害者に教えられた」的な話、正直退屈極まりないですが、左派の中には障害者を「我々の上位に位置する者」と信じきっている人々がおり、これはジェンダー論者がホモを崇拝する心理と、実は一切変わるところがありません。
そしてこれはまた、ぼくが「サブカル君は他者志向だ」と指摘した*6ことと「完全に一致」していることが、ここまで見てくるとおわかりになるのではないでしょうか。
そうそう、サブカル君たちもまた、都合のいい時は「俺たちもオタクだ」と称し、「オタクは左派だ」と主張しながら、しかしその数分後にはオタクを蔑み、「オタクはネトウヨだ」と言い出す、「あるものが見えず、ないものが見える」というリベラル回路の持ち主でした。
男性の他者志向性、自己疎外性に気づいた杉田師匠。
そしてまた、見ている限り、確かに師匠の筆致からは、(他の「男性学」者と異なり)男性への憎悪はあまり感じ取れません。こうした師匠のスタンスは(本書でも名前の出る)森岡正博師匠に近く、まあ、田中師匠よりはマシだとは、思います。
しかし杉田師匠の「リベラル回路」にインプットされた「ポリコレしぐさ」は彼の中に生まれた疑問を突きつめることを許さない。結果、「何か、障害者を適当に称揚して、お茶を濁した(他者志向に逃げた)」ように、ぼくには思われました。
それは丁度、ギルの笛の音に負けてしまったキカイダーのように。
実はキカイダーもギルの笛の音と良心回路に葛藤し、ついには笛の音に負けて光明寺博士を襲ってしまう、というお話がありました。キカイダーはその後、「自責の念」に駆られ、何と「失語」してしまう(!)のです。
が、師匠の場合はそれとは裏腹に、超絶キモポエムを書くという大技が繰り出されました*7。
そのポエムが、男性の苦しみを増幅させるということには、気づくことができないままに。
最後に師匠の、冒頭の自殺者に捧げられたポエムを引用してみましょう。
もちろん、死者はもう語らない。何一つ。
シングルファーザーのあの人の本心は、誰にもわからない。
(34p)
もちろん、この人の本心はぼくにもわかりませんが、少しでもホンネを吐露すれば「女性に身勝手な要求をしているからだ」「男性権力だ」「ミソジニーだ」などと言い出す杉田師匠には、間違っても弱音など吐けなかっただろうな、ということだけはわかります。
そして、死者が語らぬのをいいことに、今日も男性学の研究家たちは自殺者の屍肉を食らって肥え太り、新書を書き飛ばして小銭を稼ぎ続けています。
*6 「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件 ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?」
*7 実は上の「失語」という言葉は本書で何度も繰り返されます。「男たちよ、悩め」とでもいったニュアンスで「失語すべき」などと書かれているのですが、ぼくとしてはむしろ杉田師匠の「饒舌」さに、圧倒されっぱなしでした。