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『ダメおやじ』について後半です。
 それと『WiLL Online』さまでリュウジ氏炎上問題について記事を書かせていただきました。

 確か掲載の翌日くらいにはもう一位になってたんじゃないかなあ……ともあれ未見の方はご覧ください!
『ダメおやじ』についてまだ動画をご覧になっていない方は以下を!



 前回記事をご覧になっていない方は、そちらから!
 さて、というわけでようやく再録です。
 これは2012年2月2日に書かれたもので、実のところこの時期、むしろフェミ側が主導して「弱者男性」という言葉が使われるようになったという指摘は、貴重であるように思われます。
 では、そーゆーことで……。

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 さて、前回は『ダメおやじ』に登場するオニババが、「普通の女」であることを指摘してみました。
 そしてまた、その姿は「弱者男性」への攻撃性を剥き出しにしてきた昨今のフェミニストたちの姿と「完全に一致」しているとの指摘も、したかと思います。
 事実、ここしばらくのネット上でのフェミニストの姿を見ていると、彼女らの口から非常にしばしば聞かれるのが「弱者男性」という言葉なのです。
 ちょっと目に着いたものを拾い上げてみましょう(以下に個人のツイートを引用しますが、あくまで「よくあるパターン」とぼくが感じたものを、「その一例」として採り上げさせていただいています)。

同性との競争から逃げ「弱者男性」を名乗りたがるのに、女に対してだけマッチョになりマウンティングしたがる男はバカにされる。


 といった辺りが、その定番の口調でしょうか。
 確かに「男性差別」業界の人々の中には「女死ね!」といった暴言を吐く人も多く、ぼくもよくないなあと思うのですが、しかしそれすら「女に対してだけマッチョになり」たがっているというのとは、また違うように思います。
 彼女らは実に熱心に、「弱者男性」を批判します。こちらとしては「何だ、どうして『強者男性』を批判しないのだ、フェミニストはそんなにも弱い者いじめが好きなのか」と思ってしまうのですが、そうした反論をすると返ってくる言葉が、

そもそも「性差別」とは異性愛男性を支配的地位に置く非対称性の下で女性差別、同性愛差別等として現出するのであって、「性差別という無色透明な大集合の中に、女性差別や"男性差別"がフラットで排他的な小集合として並立している」のではない。


 といったものです。
 何を言っているのかわからない?
 いや、ぼくもよくわからないんですけれどもね。要は「フェミニズムという妄想体系を前提としてみれば、女性はいついかなる場合にも弱者ということになるので、弱者男性とはいえどその全員、女性よりもヒエラルキー的には上だ」とおっしゃっているみたいですよ。
 つまり、こちらとしては「女ばかり得しやがって」と言っているのですが、フェミニストにはそれがわからない。是非を云々する以前に、こちらが何を言っているのかがまず、理解できない。
 そこで「彼らは弱者男性だ、だから強者男性からいじめられた。その憂さを我々女性という名の更なる弱者をいじめることで晴らしているのだ、何て卑劣なやつ」という理解をしてしまうのです。
 先のエントリでも指摘したように、フェミニズムの世界観ではあのダメおやじすらも、そして311以降、決死の覚悟で作業に当たった福島原発の作業員すらも、許されざる忌まわしい憎むべき「女性差別主義者」に、なってしまう。許されざる忌まわしい憎むべき「女性差別主義者」でなければ、ならない。
 拙著を読んでいただければ「女災」とは、「女性が、自らの加害者性に無自覚であること」そのものであるということがおわかりいただけるかと思います。そしてフェミニズムこそが「女性が、自らの加害者性に無自覚であり続ける」ためのノウハウ集であることが、こうした経緯からもご理解いただけるわけです。
 しかしフェミニストのスットンキョウなリアクションに困惑した男性側は、「どうしてあんたらはその強者男性とやらを批判しないのだ? ひょっとして強者男性は好きなの?」と思わざるを、どうしても得ない(そしてその、恐らく直感的になされた判断は、フェミニストを含めた全女性の本音を正しく突いているわけです)。
 はてな匿名ダイアリーの「「弱者男性」は敵を間違ってなんかいねーよw(http://anond.hatelabo.jp/20111220213254)」というエントリでは、

フェミ系の人間で、
「弱者男性」ってクラスタについて、
礼儀正しく接したり考えたりしてる奴、
真摯に共闘を呼びかけてる奴、
そういうのを俺は一度も見たことないんだけどw


 と指摘されていますが、「男はみんな悪者」がフェミニズムの大前提である以上、男に礼儀正しく接したり、ましてや共闘しようとしたり、彼女らが考えるわけがないのですね。
 逆に(フェミニストに全面降伏したタイプの)進歩派男性はやたらと「フェミニズムとの共闘」を呼びかけてる気がするけど、一度でも合コンのセッティングに成功したことってあるのかなあ……。
 この後、この匿名氏は

自分が弱そうな奴ばっかり狙って憎しみを叩きつけて回ってることへのいいわけだろ?wただの。

全共闘世代の左翼なんて、「憎むべき官憲」を殺した数より同じ学生に批判付けて殺した数の方がずーっと多いw


 と続けます。
 見事な指摘だとは思いますがしかし、それだけではないようにも思うのです。
 前世紀のフェミニストは「男たちよ、男らしさから降りよ」とドヤ顔で繰り返していました。最近、北原みのり師匠の著作にチェックを入れ続けているのですが、前世紀に出版された『はちみつバイブレーション』を読んでいても「フェミニズムによって男も解放される」といった記述がありました。今の弱者男性に憎悪をぶつけるようになった師匠とは大違いで、まさに隔世の感、といった感じなのですが、実際この時期のフェミニストたちは勝者の余裕か、この種の発言を非常にしばしばしていたのです。

 また、フェミニストの得意技に「大学の男子学生いじめ」というのがあります。やはり前世紀の著書である『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』の中で、

ぼくは男女平等主義なので結婚しても女性にも生活費は出してもらいます。ただ、ちょっぴりぼくの方が多く出します。なぜなら、ぼくは紳士だから。


 と発言した男子学生に対し上野師匠、遙師匠が

なんでこんなちゃらちゃらした理想の結婚を語るボクちゃんのコメントが使用されるのか?


 と狂ったような憎悪をぶつけ、その「好青年」である男子学生に「紳士君」というあだ名をつけ、嘲笑を続けるさまが描写されています。女は陰険です
 同書は遙洋子師匠が上野千鶴子師匠にケンカ(=議論)のやり方を学んだ過程について書かれたものなのですが、イントロでは上野師匠の

 教授は今度はニコッと微笑んで言った。
「男をもてあそんだら、真っ赤になって怒って面白いわよ。」


 といった発言が紹介されます。
 神々しいです。
 爆問に対して橋下徹VS香山リカくらいに惨めな敗北を喫した人とは思えません。てか、アレも教授の脳内では「完全勝利」に変換されてそうですが。
 つまり、前世紀はフェミニストたちにも余裕があったわけです。それはまるで、楽しげに、余裕でダメおやじをいびるオニババのように。

 そう、「ジェンダー論」とかが総合誌でもちょくちょく特集されていた前世紀末、フェミニストたちは男性へ上から目線でご高説を垂れまくっていました。
 むろんそれは同時に、進歩派と称する男性たちが彼女らの靴を舐め続けていたからでもあります。そうした進歩派男性の一部が前世紀末、「メンズリブ運動」というフェミニスト様に全てを差し出す運動を始め、しかし今では廃れてしまった、といったことは幾度も指摘していますね。もっとも、廃れたからと言っても彼ら進歩派はあれから、彼女らへの靴舐めをやめたことは一度もないのですが。
 しかし、です。
 新世紀に入るや、どういうわけかフェミニストたちはいきなり「弱者男性」に対して苛烈なバッシングを始めました。それは(感覚的な問題であり、説明はしにくいのですが)前世紀の「ドヤ顔」「嘲笑」とは違い、「必死の形相」「憤激」といった形容がふさわしいものです。

 この時の彼女らのターゲットは「ネトウヨ」であり「2ちゃんねらー」であり「ニート」であり「オタク」であり「低所得男性」であり「非モテ」であり「童貞」です。いろいろと言葉を並べましたが、フェミニストの脳内で上の言葉は全て同じ概念――即ち、「弱者男性」を指しています。
 そして自分たちに逆らう敵を「弱者」認定して叩けば叩くほど、フェミニスト側が「強者」である、既得権益を守りたい一心で弱者を踏みにじり続けている人々であるという事実が、はたには直感的に悟られてしまう。
 考えてみれば、フェミニストたちは本来、「保守反動おやじ」とやらいう、ある種の「強者男性」の一類型を仮想敵にしていたはずです。かつて、フェミニストたちが「おやじ」相手にバトルする姿は、何だか嬉し楽しげに輝いていました(今世紀初頭にも彼女らと「バックラッシュ」とやらとのバトルはありました。この時は「保守派おやじ」が相手であったはずですが、苦戦を強いられたせいか、結構お顔を険しくなさっていた印象がありますが)。
 いささか乱暴ですが、日本のフェミニストたちは黎明期の70年代から80年代にかけて、「保守派おやじ」と楽しげにバトルを繰り返していた。90年代には勝利を確信してドヤ顔で「草食系男子」をいじめた(そう、「草食系男子」という言葉は当時ありませんでしたが、上野師匠自身が「新男類」といったほぼ同じ概念を提唱していました)。ところが00年代に至るや、余裕を失い、夜の雪のような暗さ冷たさをもって「弱者男性」への苛烈なバッシングを開始した、という図式が、取り敢えず描けるのです。
 どうしてこうなった?
 と問われれば、二種類の回答があるように思います。
 一つには、「男性に対する、裏切られたことによる憎悪」です。前世紀と今世紀の違いと言えば、何と言ってもネットの発達でしょう。ツイッターに先んじて2ちゃんねるなどが登場した時点で、前世紀には北朝鮮的箝口令が敷かれていた「男性のホンネ」が明らかになってしまいました。今まで甘やかされきっていた女性にとって、それがそれこそ冷や水、というより絶対零度の冷凍ビームだったことは想像に難くありません。
 が、それもあると思うのですが、もう一つ。
 結局フェミニストは、いや女性は最初から、ずっと以前から「弱者男性」を憎んでいたのだ、との説をぼくは採りたいと思います。

 つまりここで、『ダメおやじ』が再び問題となってくるわけですね。
 何故ダメおやじがいびられるか。それは彼が、「弱者男性」だからです。
「弱者男性」はその存在が「悪」だからです。

 何故か。

 それは、「弱者男性」が「弱者」という彼女らのしがみつきたい地位を脅かす、絶対に許してはならない存在だからです。
 拙著でも書いたように、フェミニストは「ツンデレ」です。
 上野師匠が「保守派おやじ」とどこか嬉しげにバトルをしていたのは、それが「ツンデレ」ちゃんにとっての「愛の営み」だったからに、他なりません。
 別な表現をしてみましょうか。
 結婚できないブスが金を持っていそうな男たちに噛みついて、相手をしてもらい、論壇の地位という名の「マンション」を買い与えてもらう。言わば前世紀、フェミニズムは一種の「援助交際」でした。「家庭」を否定するフェミニストたちは「家庭」には入らず、「保守派おやじ」と遊んでおこづかいをもらう道を選んだ「女王様プレイ」専門の愛人だったのです。その伝で言えば宮台センセイ辺りは女子高生とフェミニストの両方からおこづかいをもらって生計を立てていたヒモみたいな存在です。どうにも情けない話です。何でこんな結論になってしまうのか。
 まあそれはいいとして、前世紀はギリギリ、「オニババ」が本妻、「フェミニスト」が愛人、という図式が成り立っていたわけです。
 しかし今世紀になって、男たちにはそもそも女に分け与えるほどのおまんじゅうが残っていないことが明らかになりました。今世紀のオニババは、そもそも家族など養えなくなったダメおやじに、結婚してもらえなくなりました。では、「フェミニスト」は?
 まるでこづかいを持った子供が通りかからないのに業を煮やして、カネは取れないと知りつつ憂さ晴らし目的でホームレスを襲撃する暴走族のノリで、「弱者男性」を攻撃し続ける――それが今のフェミニストたちの姿なのではないでしょうか。
 ここで敢えてわかりやすく、ランキング形式でまとめてみましょう。
 一番いい女。それは「主夫」を養う女性。しかし、そんなのはこの世にいませんw
 二番目にいい女性。それは旦那がうだつが上がらなくてもそれほど文句を言わず、それなりに事情を鑑みてくれる嫁です。現実的に考え得る一番望ましい、マシな女性ではないでしょうか(ただ、ひょっとしたらこんな女性もこの世にはいないかも知れませんが)。
 三番目は、オニババ。つまり旦那がうだつが上がらないといびる。うだつが上がったら、平身低頭する女。認めたくない現実ですが、現実の女性は多かれ少なかれ「オニババ」でした。『オニババ化する女たち』の出版される、実に三十四年前も昔から。
 四番目。結婚できず、しかし「ダメおやじ」と結婚した「オニババ」のことは見下して、「エラい人」を見つけては「保守派おやじだ」と絶叫し、総合誌に悪口を書いておこづかいをもらうという、一種の援助交際をする女。これが前世紀までの、言わばフェミバブル期のフェミニストの姿です。
 五番目にして、最低な女の姿。それはおこづかいをもらえなくなったために町に繰り出して、自分以外の「弱者」を抹殺するために、「おやじ狩り」を始める女。しかしそんなことをやりながら、「一番いい女」くらいに光輝かんばかりの自己イメージで自らの脳内を満たしている女。即ち、今のフェミニストです。

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 以上です。
 本稿は90年代、「保守反動おやじ」という男性ジェンダーを強く持った存在と相対していたフェミは「正の性欲」に震え、メスの顔をしていた。
 ところが「ネトウヨ」であり「オタク」であり「弱者男性」を敵とするようになった今のフェミは冷酷無残な表情で「負の性欲」を満たしているとの指摘と言えましょうか。
 動画で述べた通り、『ダメおやじ』の「恐妻カウンセラー」では(夫婦ゲンカをしていたが、仲直りをして)仲睦まじい夫妻を見たオニババが、ダメおやじを冷酷にいびりながら、「一生お前をいびり抜いてやると誓った」と宣言する様が描かれます。ここでは男性ジェンダーを持った夫に恵まれなかったオニババの、弱者男性への負の性欲の発露が描かれています。
 まさに、今のフェミニストたちの振る舞いを、本作は五十年前から予言していたのだと言えましょう。