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 ――ちょっと前、動画で『ダメおやじ』について扱いました。



 ぼやぼやしてる間に、もううpしてからふた月くらい経ちつつありますが、ともあれそれの補足のような形でかつての記事をうpしたいと思っていたので、今回はそれです。
 何しろ初出は2012年1月28。今となっては時事ネタなどわかりにくいのですが、敢えてその辺りはそのままにしてあります。ただ、不必要な部分などのカットなどはしておりますので、その辺りはご理解ください。
 では、そういうことで――。

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 だ~めだめだめだめおしじ♪
 だ~めだめだめだめお~し~じ~♪
 と書いてもみなさん何のことかおわかりにならないと思いますが、大昔のアニメ誌で『VOW』的なラテ欄などの誤字を投稿するコーナーがあり、そこで『ダメおやじ』が『ダメおしじ』と誤植されていたのが載っていたのです。忘れ難いので、特に記しておくことにしました
 ――というわけで『ダメおやじ』です。

 と言っても、お若い方にはあんまり馴染みのないタイトルかも知れませんね。
 70年代の『週刊少年サンデー』に連載されていた「大人向け」漫画で、いいとこなしの中年サラリーマン、ダメおやじが妻であるオニババ、娘のユキ子、息子のタコ坊、そして職場の仲間からひたすらにいびられる、というお話です。アニメ版ではダメおやじを大泉滉が、タコ坊を雷門ケン坊が当て、これもまた(作画的にしょぼいのはまあ、仕方がないとして)大変な傑作に仕上がっています。
 ご存じない方はちょっと調べてみていただきたいのですが、しょぼくれた貧相な風体のダメおやじに対してオニババは巨漢、身体能力的にも後者が前者を完全に圧倒しています。そのいびりは回を追う毎にエスカレート、ダメおやじは台風の中を裸で放り出され、風邪で熱のある中、ピラニアの入った水槽にぶち込まれ、額に釘を打ち込まれたりします。
 連載当時、児童文学作家の上野瞭先生が本作を「従来のマンガにあった父親像を、徹底して踏みにじろうとした」と評しています。

 さてみなさん、ここでちょっとトンチを効かせてみてください。
 何ちゃら動画でこれを見てみると、コメ欄に「田嶋陽子推奨動画」といったギャグが並んでいます。
 しかし果たして、本作をフェミニストたちに見せたら、どういう反応をするでしょうか。
 大喜び?
 お前は何を言っているんだ?
 半狂乱で怒り出すに決まっているじゃないですか。
 何故か。
 それは、ダメおやじが、「女性差別主義者」だから、です。
 何しろ、いかにダメだと言ってもおやじは会社員で、オニババは専業主婦なのですから。事実、オニババが家事をする様も描かれています(おやじとオニババ、普段どちらが家事をやっているのかは、漫画版、アニメ版共にどちらとも取れる描写が混在していて判然としません)。
 一方、給料日だけはおやじも優しくしてもらえます。オニババもダメおやじが出世することを望んで、時には『夫を出世させる本』を購入し、その指南のままにおやじを大事にしてみるし、おやじが課長になれそうになると大喜びでそれを祝いもします。むろん、常にどんでん返しが用意されていて、ラストではおやじがいびられるオチが待っているのですが。
 夫がカネを運んでくれば平身低頭し、しかし男がカネを運んでこないとなるといびり倒す恐妻。それは当時の男女関係を端的に描いたものです。むろん、漫画としてのデフォルメはありますが、しかし本作が共感を持って迎えられたのは、本作が漫画なりのリアリティを獲得していたからこそのことでしょう。
 上野瞭先生も

 このマンガは、「家庭」という枠をこわさない。(中略)しかし、そうした賛否両論を口にしながら、実は、このマンガに、ぼくたち読者は、マイホーム絶対の発想をどこかで感じとっているのだ。


 と極めて重要な指摘をしています。

 しかし、打ちのめすことによって、ダメおやじの家族は、もうすこしましな父親の恢復を願っている。そのことは、ダメおやじが課長になることを願ったり、すもうで勝つことを願ったりするエピソードでわかる。


 アニメのエンディングでは「憎いはずがない」「本当は愛している」「愛が憎しみに変わる」「親子で労りあって暮らす日を夢に見る」と言ったフレーズが並び、本作のテーマが「家族愛」を裏から描くことであると、これ以上はないくらいに強調しています。また、アニメ版は何しろ地上波のゴールデンですから、いびりの描写がかなり抑えられ(残酷描写は漫画で淡々と描く分には受け容れられても、それをアニメでやってしまうと「きつい」ものになるのは当たり前で、この判断は妥当なところでしょう)、また子供の視聴者を意識してかタコ坊とおやじの絆が度々描写され、野良犬ロクベエがおやじを励ます描写が挿入されるなど、大泉滉の名演も相まってドライな原作をペーソスの感じられる良作に昇華し得たと、本気で感じます。
 また一方、よく知られるように原作版では、連載後半でダメおやじが成功者になりオニババも良妻となるという展開が待っています。
 ここには、「女は力のある男は愛する/力のない男は愛さない」という一面の真理が描かれているわけです。
 つまりオニババは、「普通の、女」なのです
 繰り返しますが、オニババが直接的に暴力に訴えているのは、漫画的なデフォルメです。一般の女性たちはこうした「体術」で男性を虐待したりはしませんが、逆にそれよりも有効で陰湿な「イヤミ」という武器を持っているのではないでしょうか。事実、80年代のACの「言葉の暴力で子供を傷つけてはいけない」的なCMで、オニババはおこごとやイヤミで子供を虐待する母親役で登場しています。

 フェミニストたちは「競争原理で動く男たちと違い、女性は調和的」などと真顔で主張しますが、果たしてそれは本当でしょうか。本作ではオニババがクラス会に出かけ、見栄を張っておやじに「社長になれ」と無理難題を突きつけるエピソードも描かれています。高度経済成長期に過労や事故で死んでいった男性がどれだけいるのか、見当もつきませんが、それは全て企業(ひっきょう、企業社会を作り上げた男性)が悪であり女性には罪が一切ありません、というわけでしょうか。
 何ちゃら動画を見ていると本作について「まだ父親の権威があった時代だからこそ、こうしたギャグが成り立ったのだ」といったコメントが並んでいますが(むろん、今に比べれば遙かに権威はあったでしょうが)、決してそうではなく、本作の描写は当時の空気を反映してこそのものだったわけです。何しろアニメの宣材ではオニババを「ヒステリックな女房族の典型」と紹介しているくらいなのですから。
 この作品が終了した80年代に「家庭の崩壊」が囁かれ出すのは象徴的というか、本作が時代を先取りしていたというか、何だかそんな感じもします。

 さて、ここでぼくたちは、フェミニズムがそうした「家庭」というものを何よりも深く憎悪する思想であることを、どうしたって思い出さないわけにはいきません。
 もう何度目の繰り返しになるかわかりませんが、上野千鶴子師匠が過労死する男性たちを指して、「それに見あうだけのメリットを得ているのだ」と絶叫したことを、そして男性が女性を「守る」という時、それは「囲いに閉じ込めて一生支配する、という意味だ」と泣き叫んだことをやはり、もう一度指摘しておく必要が、やっぱりありそうです。
 たまたま手元にあった『東京新聞』12月23日からの引用ですが、東電が公表した報告書には、311の福島第一原発における作業員たちの様子が生々しく記述されていました。

結婚指輪が汚染されるのを嫌い、一度は外したが、「最悪の事態が起きたときに、自分だと分かるよう」考え直し、はめて作業に出た人もいた。

故郷の父親に電話で「俺にもしものことが起きたら、かみさん、娘をよろしくと伝えた。


 何と恐ろしいことでしょう。
 前者がこの期に及んでここまで結婚指輪を大事にしているのは「家父長制支配」により女性を縛りつけておきたいが故ですし、後者に至っては自らの死後にまで、妻と娘の支配を父親に託しています。家父長制支配」により女性を縛りつけておきたいのです。こうしたおぞましいホモソーシャルミソジニーとによって男たちが結びついているという事実に、筆者は戦慄を禁じ得ません*
 つまり、上の記事に書かれた作業員たちは許されざる忌まわしい憎むべき「女性差別主義者」であり、そしてまた、オニババに虐待を受け続けながらも、決して別れようとはしないダメおやじもまた、許されざる忌まわしい憎むべき「女性差別主義者」である。
 それが、フェミニズムの世界観です。
 いえ、自らは陰に隠れ、男を矢面に立てて責任を取らせる。それは女性の基本戦略であり、フェミニストの専売特許ではありません。
 いや、それも正しくはないでしょう。男に責任を取らせるのはフェミニスト以外の女性、即ちオニババの専売特許であり、フェミニストは「結婚」によりそうした「権利」を手に入れられないがため、オニババの「言動」を「学問」によって再現することで利を得ている存在なのです。
 拙著を読んでいただければ「女災」とは、「女性が、被害者を装って加害者性を発揮すること」であるということがおわかりいただけるかと思いますが、そうした女性の詐術を、本作は漫画的デフォルメによって暴いてしまっているのですね。
 ダメおやじが(仮にいかにダメおやじであろうと)「家庭」というものを否定しない存在である限り、フェミニストはその正義の刃を、ダメおやじに向けるのです。
 オニババに虐待し抜かれ、息も絶え絶えで、それでも給料日にはタコ坊におみやげを買って帰ろうとするダメおやじ。そのおやじを、物陰から現れたフェミニストの凶刃が刺し貫き、ダメおやじはとうとう真の死を迎える。
 それが平成に描かれるべき、『ダメおやじ』のトゥルーエンドです。
 え?
 いくら何でも、腐ってもフェミニストであるならば、嫁にDVを働いている悪い旦那に刃を向けるのではないか?
 残念ですが、それはありません。
 事実、昨今のフェミニストたちの言動を見ても、専ら「弱者男性」への攻撃性で満ちているではないですか。
 では一体、どうしてこうまでフェミニストたちは「弱者男性」を憎悪し、排撃するのか。
 それについては、次回に。

*遠からず、こうした実話を元にした『プロジェクトX』的な映画なり何なりが作られることでしょう。お利口なフェミニストたちはダンマリを決め込むでしょうが、北原みのり師匠辺りは何か軽率なことを口走ってくれそうです。楽しみに待ちましょう。

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 ――以上です。
 本稿で既に「弱者男性」という言葉が使われていることに、自分で驚きます。
 この頃から囁かれ出した弱者男性論、それがずんだもんの末路的動画で、一般にも共感される世の中になってきた……というのが動画のテーマでした。
 根本は変わっていませんが、より深く作品にも迫っている動画の方も、是非ご覧ください。