さて、ここしばらくフェミニズムが生み出す「冤罪」についての記事を再録してきました。一応、今回で最後の予定ですが、今回の記事は2019年11月22日、五年前に発表された記事です。嫌になりますね、『女災』刊行から今年で十五年目にもなってしまったわけです。
さて、『女災』について、未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めしたいところなのですが、もし本当に買ってやろうとお思いの方は一ヶ月ほど様子見をされることをお勧めします。でも、一ヶ月もそのモチベが持たなそうな人は、今すぐ買ってください。
ちなみに、今回のテーマとなる「これフェミ」とは青識亜論師匠が石川優実師匠を招いて催した討論会(正式名称が何だったかは忘れました)。
近年も青識師匠が石川師匠にリーガルハラスメントを受けているところを見ると、同上を禁じ得ませんが、ともあれ石川師匠という問題のある方の古傷、お楽しみいただければ幸いです。
* * *
今までも天才予言者であるワタクシ、兵頭新児が数々の予言を成就させてきたことは誰もが知るところですが、実のところ、「これフェミ」についても『女災』において「予言」がなされていたわけなのです。
●2019年11の月、青き眼鏡が降り立つであろう、フェミニズムを復活させるために
「これフェミ」というのは、青識亜論(以降、青識)と石川優実師匠とのトークイベントです。青識は近年、表現の自由クラスタとしてアンチフェミ的発言を続けるネット論客。石川師匠はどうも近年、フェミニズムに目覚めたグラビアアイドルのような方らしいです。
何にせよ青識側主導のイベントであるがため、聴衆などは彼の側の人間が多かったことが想像できる。しかし青識側は(彼の主張を信じるならば)かなり周到に、「吊し上げ」にならないよう、配慮をしていたようです。
しかし、そうした配慮にもかかわらず、石川師匠はブログで当イベントを否定する「表現の自由クラスタによる吊し上げ」であったかのような発言を始めたのです。
もっとも、ぼくも参加したわけではなく、ネット上で参加者(とされる人々)の書き込みなどから、事態を傍観している立場にすぎません。しかし青識は一応、当日の録音テープか何かを持っているらしいので、最終的にはそれを無編集で提出する、という手段が取れる(目下、何故かそれをしないことで青識への不信感も、高まりつつあるようですが……)。その上で言っていることなのだからそこそこ信頼できる、と考え、以降、論考を進めましょう。
さて、上に信頼と書いたものの、そうは言ってもまず、当ブログの愛読者の方はおわかりのように、青識はとてもとても信頼できる人物ではありません。彼は「アンチフェミ」であるかのように振る舞っていますが、牟田和江師匠の悪辣かつ幼稚極まるフェミ本『実践するフェミニズム』を白饅頭と共に絶賛しており、フェミ批判はポーズであると考える他ない*1。何しろ、当イベントにおいても
・フェミニズムに悪いイメージが持たれているが「フェミのことは嫌いでもフェミニズムのことは嫌いにならないでください」
などと宣っていたのですから*2、お察しです(恐らくですが、上の「フェミ」は「フェミニスト」を指すのだと思われます)。
同様に、青識陣営に立ち彼を擁護しているのが多摩湖師匠やらろくでなし師匠やらといった、どうしようもない面々。ことに多摩湖師匠に「事実を事実として認識する能力」があるとはとても思えず*3、事態そのものが『ドラゴンボール』風に言うならば「とびっきりの最狂対最凶」の様相を呈しているわけです。
しかし、ここでぼくが一番興味を持ったのは、まさに本件が石川師匠による「女災」そのものである点です。そう、「女災」とは「女性ジェンダーというものの加害性のため、男性が被る災害」です。そしてそれは端的には「被害者ぶること」。「女性はいついかなる場合も被害者である」との「ジェンダー規範」を「兵器利用」することです。そして、フェミニズムとは「女災」の肯定、女性は(今回の石川師匠のように)「歴史改変」→「冤罪」のコンボを決めることによって男性を殺す権利があるのだとの主張そのものなのです。
石川師匠はイベントにおいて、
・この場があるのはありがたいこと。青識さんがしっかりハラスメント対策をしてくれた。
などと宣っておりました(これは会場のヤジを、青識がたしなめた件です)*2、
また、ヒトシンカさんたちによると、師匠は以下のような発言もしていたようです*4。
「今までは怖いというのが一番にあって、でも話を聞かないといけないなと。もっと話を、また何か炎上したらこういう会ができたらいい」
「怖かったし、怖いから来れないという人もいた。しかし来た事で、相手の考えがわかってよかった。次はその原因も聞けたらいいと思う。」
「またなんか炎上したらやっても良いと思うが、配慮は必要。今回のようなルールを全員がやれば社会は変わるので、意識改革すべき」
ところがこの石川師匠、後日、自身のブログでぐちぐちと文句を言い出したのです*5。
3つ目。途中から青識さんが私の考えを評価し始めた。
「それは素晴らしい」「それは正解」などなど。その辺りから私の頭は
「あれ?ところでこの人誰だっけ?」となっていた。なんで青識さんが判断できるんだろう。
7つ目。青識さんは会場にむかって大きな声で感情をぶちまけ、会場の方たちから共感を得ていた。そしてとても気持ちよさそうに見えた。
隣から見ていたが、青識さんが一番輝いていた場面だったと思う。でもすごく痛々しく見えた。私との討論会だったと思うのだが、青識さんは誰と何を話していたのだろう。
……正直何を言っているかわからないと思います。当記事を「ふわっとした、文章らしきもの」といった批評をしていた人がいたかと思いますが、ぼくも同じ感想を持ちます。
まあ、青識に対し「エラそうだったから気に入らない」「私より評価されたから気に入らない」とおっしゃっているのだと思います。師匠は何やかやですっかり態度を硬化させてしまい、kutoo運動を先鋭化させる宣言までしちゃっています。
いえ、実は当記事も、前半ではそれなりに首肯できることを言っている部分もなくはないのですが、後半に進むにつれ、「ポエム」度を増していきます。
そんなに簡単に共感してもらえる部分ではあなたが羨ましいが、私は絶対あなたのようになりたくない。
この会の最後にも私は言ったが、先に加害をした側が被害者ぶるな。 同じだと思うな。
まあ、何か、女性の中でどう感情が醸成され、「女災」が形作られていくかの、これは格好の実況中継、テキストとなっています。
以降も事態はくすぶり続け石川師匠(側の人物?)は青識(側の人物?)を痴漢呼ばわりし、また明らかな嘘を吐いたりもしているようなのですが、まあ、平常運転としか言いようがありません。
ただ、平安和気辺りが本件を石川師匠側の完全勝利、何となれば彼女の方が圧倒的に知名度があるのだから、と言っていましたが、それは正直、あまり同意できません(石川師匠はBBCの「100人の女性」に選ばれた著名人だそうですが、そう有名とは思えませんよね)。
青識だってそれなりに影響力のある人物なのだから、石川師匠という強者が青識という弱者を利用したというのは、それほど当たっていない。仮に、例えばですがフォロワー数などで石川師匠が青識を圧倒していようと、支持者の熱意という点では青識が上ではないか。だから、「これフェミ」にフェミの出席者はほとんどいなかったのだし、(石川師匠が自身のイベントで本件をダシにしようとしているようですが、同時に)青識もまさに本日、テレビ出演をすることになったのです。
*1「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。
*2「【議事録+感想】これからのフェミニズムについて考える白熱討論会に行ってきた」
*3「献血ポスターの騒動で、フェミニストが遂に「宇崎ちゃん取りやめないなら献血拒否しよう!」と献血拒否を呼び掛け始める」
彼女は「フェミニストを名乗るのは止めた、止めた」と繰り返しておきながら近年、また「フェミニスト」を自称するようになってきたのですが、そこを指摘すると、「デマを流すな」と言われてしまいました! 本当に、息を吸って吐くようにウソを吐くのがフェミニストであり、青識はその仲間、なのです。
*4 https://twitter.com/hitoshinka/status/1197301469109604352
*5「11月16日、#これフェミ 私から見えた風景」
●その前後の期間、フェミは平等の名の下に女災をもたらすであろう
女性は受動性を宿命づけられた性であり、男性は能動性を宿命づけられた性です。そうした性質が先天的なものなのか後天的かは置くとして(後天的であるとしたジョン・マネーの実験が捏造であるとバレた、といったお話は今回は置くとして)、まず現実としてそのようになっています。
即ち、両性共にある種、自分の意志を越えたところで被害者/加害者にさせられる宿命性があるわけです。仮にそのため(例えば、身体能力が男性に劣るせいで)女性が被害者の立場に置かれたら、その女性が不利益を被ることになります。
フェミニズムとは、この状況を絶対視し、女性ジェンダーのメリットから全力で目を伏せることで成り立っているガクモンなのですが、もしその被害者性に理がなかったら(要は冤罪であったなら)ことは男性の側の、圧倒的な不利益です。
さらに言えば、女性は(ことに性的な場で)男性を加害者に仕立て上げる強力な動機を持っています。
ぼくは『女災』において、
女性のセクシュアリティの本質は、男性を悪者にすることそのものなのです。
(161p)
と表現しました(強調原文ママ)。
彼女らは自己愛を満たすために、男を悪者に仕立て上げます。恋愛や結婚における責の全てを男に求め、或いはまた自分が男から求められているのだ、という幻想を満たすために男を悪者に仕立て上げ、その結果、相手を殺します。
(157p)
少なくとも立場的に弱い男性を「ストーカー」、「セクハラ加害者」扱いしてのいじめ、いやがらせとなると、日常的に広範に行われていると考えざるを得ません。そしてそういった行為に女性故の優越感を感じることの快楽がいささかも伴っていないというのは、どうにも考えにくいことです。
何となれば、先に書いたように「男性から求められること」そのものが女性のセクシュアリティであり、アイデンティティの根幹をなしているからです。故に、彼女らは自らの欲望をつまびらかにせず、覆い隠すことで「男性から求められ」ようとします。
(160p)
そして、性的な場でなくとも、何かと言えば自分を被害者の位置に置きたがる女性というのは、確かにいます。それはそうした「女災」がいかに自分に旨味を与えてくれるかを知ったが故の行動なのでしょう(そのプロになった女性を、我々はフェミニストと呼ぶのです)。
「これフェミ」は性的な場ではなかったはずなのですが、石川師匠は青識が「エラそうだったこと」「ちやほやされていたこと」を「ひがんでいる」ようにしか見えない辺りは示唆的です。「私は注目を浴びようとモデルに、フェミニストになったのに」との不満が、石川師匠の本音ではなかったでしょうか。そしてその「注目を浴びる」こと自体が、女性にとっては非常に性的な意味あいを持っているのです。いえ、ぼくの目からは青識もまた、鼻の下を伸ばしてフェミをデートに誘ったようにしか、見えないのですが……。
●フェミの支配の2000年が過ぎた。2019年、同じものがその体制を保つだろう
ただし、先に引用した*2においても青識がエラそうであった、パフォーマティブであったことをかなり否定的に書いている箇所があります。青識が相当に図に乗っていたことが窺い知れるわけですが、これも仮に男女の性的関係に準えて表現するならば、例えば「おkを取ったと思い、女とやったら後日レイプだと訴えられてしまった」、即ち「能動性を期待されているがための被害者性の発露」であったと言うことができましょう。
性的な場において「男の誘い方がキモくなかったら、ヤれる」。しかし女の方も気が弱く、「何か、断りづらくその場ではおkしてしまったが、本音を言えばキモかった」といった状況があり得る。
そうなると、「レイプだったこと」に、後づけでなってしまう可能性が大いにある。
本件でも、石川師匠の後出しじゃんけんに対して「何故、イベント当日のその場で言わなかったのだ」という反論がありました。しかしまあ、「お気持ち」としては「何か、言いづらかった」のはわかる。ただ、となれば石川師匠も、後出しで本音を言うことは悪くないが、同時にその時に言い出せなかった自分を省みることも必要であったでしょう。
ところが、「女災の体系」である「フェミニズム」はそうした「反省の心」を彼女から奪ってしまったのです。
さて、しかしです。
果たして青識はそんな、石川師匠に怒る権利を持っておいでなのでしょうか。
ここで先にも書いた(*1で詳しくレビューした)、青識ご推薦の書、『実践するフェミニズム』を開いてみましょう。同書の16pには「両者の合意があればセクハラにならない」としながらも、「しかし相手がエラければ断れないじゃないか(大意)」と主張する箇所があります。また、マッキノン師匠の「女性は沈黙をもって拒絶の意を示す傾向にある」との説を引用し、「見かけは喜んでいるように見せて巧みに男性の面子を立ててや」るのだとも言います(18p。強調ママ)。
こんなものを手放しで大絶賛していた青識に、果たして後出しじゃんけんを責める資格があるのでしょうか。
牟田師匠はまた、「女はNOと口にしないことを規範とされてきた(大意)」と称します(121p)。何しろ、そもそも「女言葉には最初からNOを意味する言葉が用意されていない(大意)」のだそうです。また師匠は女言葉というのは近代社会において生まれてきたものだと言っており、これは恐らく近代における男性支配社会が女の抑圧を始めたのだ、との史観によるものなのでしょう(もちろん、中世にはレイプはなかったのでしょうね)。
また『部長、その恋愛はセクハラです!』においては(何という象徴的なタイトルでしょう!)
女性の気持ちとしては、本当に「セクハラかどうかわからない」のです。
(p60)
などとすら言っているのです(むろん、しかし、後づけでセクハラだと感じたら、男は逮捕されるべきなのです!)*5。
逆にいえば、このようなロジックを導入することでしか、ドゥオーキンの「全てのセックスはレイプである」との論法を維持することは、難しい。しかしながら、そんな狂った本を、青識は称揚しているのです。
全ては、自業自得でした。
彼はフェミニズムへと妄愛を捧げ続け、しかしそのフェミニズムの本質については、けし粒ほども理解が及んでいなかったのです。
そしていまだ淫夢から覚めない青識は、石川師匠を擁護し、「だから、今一度、みなさん、人格攻撃をやめて、寛容の精神に立ち返りましょう。」、「どうか。このような対話の場を何段にも重ねていきましょう。」などと言っています*6。
フェミニストの延命だけを使命としてこの地上に派遣されてきた青識にしてみればそれでいいのでしょうが、オタクを、男性をこれ以上巻き添えにするのは止めていただきたいところです。
*5「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)」
*6「討論会後記:それでもなお、寛容と対話を(青識亜論)」
何しろ「フェミニズムに帰依せよ」と言っているだけの内容で、「ふわっとしたポエム」というのなら、こちらも相当なものです。
*補遺
上にぼくは当初、牟田師匠の主張を「女はNOと口にすることを規範とされてきた」というものである、と書いていました。が、当たり前ですがこれは誤記で、師匠の主張は「口にしないことを規範とされてきた」というものなので、訂正しておきました。