さて、続きです。
前回記事を未読の方は、まずそちらからお読みいただくことを、強く推奨します。
・何かルッキズムみたいなことが書いてある、本
その前回の最後の辺りで全体に対する評は既にやっちゃったのですが、以降は個別に細かいツッコミどころを見ていきたいと思います。
第8章は「娯楽と恥辱とルッキズム」と題され、「ルッキズム章」とでも評するべきもの。そう、前回にも述べたように田中師匠にはルッキズムに対する大いなるこだわりがあり、それ故に「女性が男性アイドルをまなざしていること」も問題化したいという気持ちは、確かにあったのでしょう。
ところが本章において、師匠は延々「女は見た目で差別されてきた」という恨み節を炸裂させるのですが、驚くべきことにここでは男性アイドルのことも、それを「まなざしている」はずの女性ファンのことも、全く触れられていません!
これは初出がアイドルと関係のないテーマで書かれたものだったがためと思われますが、ならそもそも本書に入れるべきではなかったでしょう。
ぼくが前回、師匠がBL作家としての身バレについて難詰されても、悪びれずに本書を掲げるだろうと書いたのをご記憶でしょうか。
その理由はもうおわかりかと思います。師匠は本書の中でそれ(女性の、男性への搾取)について考える素振りは見せているわけですから。
もちろん、素振りは素振りに過ぎませんが、ぼくたちも「女だって男性性を搾取しているじゃないか」式の物言いをするのではなく、「見る/見られる」の男女の非対称性は普遍的であり、それ自体を否定すべきではない、と主張すべきなのです。
例えば前回挙げた『セクシィ・ギャルの大研究』からして、上野師匠が「男のスケベ心を利用して、自らがまるでセクシィ・ギャルであるかのようにミスリードして、地位を得た」、「パパ活の書」に他ならないのだし、いかに田中師匠が「女性は男性アイドルをまなざしているぞ」とはしゃごうとも、女性が着飾る(つまりまなざされたいと考える)傾向は厳然としてある。
確かに、「女性がイケメンをまなざすようになっている」というのもそれはそれで正しいのでしょうが、それが決定的な傾向かとなると、疑問です。例えば、バブル期はやはり似たような言説(女が男性化しているぞ!)が流行し、ジャニーズアイドルが脱いだりしたのですが、結局、男性ヌードは普遍化しませんでした。
つまり、結局「男が女をまなざす」ことこそが普遍的であり、それは女も望んでいることで、別に「搾取」などではない。フェミがそもそも、根本から間違っていることを理解し、その言説の無意味さを説いていく必要があるわけです。
・やたらと自己評価の高い女子の書いた、本
――さて、そのためにも、もうちょっと本書について、深く切り込んでいきましょう。
実はぼくは時々思うのですが、女性のアイドルファンって、とんでもなく自己評価が高いんじゃないでしょうか。
本書においても、まず「推し」という言葉が世を席巻していると滔々述べられていることを指摘しましたが、そこには「世間の注目を浴び(た気になっ)て有頂天になっている田中師匠の姿が、どうしたって思い浮かびます。彼女も、まなざされたいんでしょう。
にもかかわらず、師匠は飽きもせず、繰り返し男女の「見る/見られる」の権力関係がどうのこうのと書きますが、そう言ったその直後、オリックスファンの女性が自らを「オリ姫」と呼ぶという豆知識を披露します(165~166p)。
そこを読んで、ぼくはため息が出ました。
アイドルファンの男性が自身を「○○王子」などと呼ぶことが想像できるでしょうか。
つまりこの「姫」という表現が既に、女性が自ら、主体的に、「まなざされる」という女性ジェンダーを選び取り、あどけなくその快楽に酔っていることの証拠なのです。
さらに言えば、「推し」という言葉が既に、女性のアイドル消費が女性ジェンダーから一歩も出ていないものであったとの「答え」を最初から提示していたのです。
そう、「萌え」は「感情」を示す言葉ですが、「推し」は「行為」です。好きなアイドルを応援することですよね。能動的「主体」があるんです。
こう言うと師匠たちは「女性が主体性を獲得し、云々」とドヤ顔になることでしょうが、ちょっと待ってください。これって要するに「旦那に弁当を作ってあげること」の代替行為なんですよ。
「萌え」オタにもまた、散財することを誇るような傾向が、ゼロではないかも知れません。が、「推し」にはそもそも、「貢ぐ」ことを誇るような心性が最初から内包されている。
本書では「モンペ」という言葉が紹介されています(179p)。「モンスターペアレント」の略語ですが、しつこく「布教」活動をするファンが、自らをそう称することがあるそうなのです。
「自虐的、換言すれば自己相対的ではないか」と感心する人もいるかも知れませんが、さて、どうでしょうか。要するにアイドルファンが「モンペ」という時、アイドルを「息子」に準え、息子への愛情故に暴走する自身を、そのように形容している。ここからはどこか浮かれた感じを、ぼくは受けます。言い換えれば「モンスター」をつけて謙遜することで、彼女らは自身を(ある意味、傲慢にも)「アイドルの母」だと自称しているわけですね。
前回、師匠が「推し活」を「労働力の搾取」とか何とか宣っているのをご紹介しましたが、芸能事務所にしてみれば「あんたらがやりたがるからやらせてあげてるのに、何を」といった気分かもしれません。
そう、「推し活」とはケア労働であり、「女の悦び」の代替行為でした。
「萌え」にもモテない男の代償行為という面はあり、一般のアイドルファン女性を馬鹿にするつもりは、ぼくには毛頭ありません。しかしフェミニストがそうした本質に気づくことなく浮かれた書を著してしまうのは、果たしていかがなものでしょうか。
ましてや、非婚化、少子化そのものがフェミニズムの「成果」であることを考えるならば……。
アイドルファンとは、アイドルを「旦那」に、「息子」にしている存在です。
そして、本書から立ち上がってくる彼女らの自己像は、「アイドルを応援し、キラキラ輝いているワタシ」というものです。
おそらくアイドルが輝いている以上、応援している自分たちが輝いていないわけがない、というリクツなのでしょう。それは丁度、旦那の地位によって井戸端会議におけるヒエラルキーが決定されてしまう奥様方と、全く同様に。
つまり、仮にアイドル愛好を「搾取」であるとしても、男女でその仕方は全然違う。
先にアイドル愛好は搾取でないとしましたが、仮にですが男性のアイドルファンが女性アイドルのパンチラを盗撮したら、それは「搾取」と呼ばれるべきかは措くとして「悪いこと」でしょう。
しかし女性というものは女性ジェンダーのネガティビティについて全くの無頓着で、男性アイドルに対して「「搾取」と呼ばれるべきかは措くとして「悪いこと」」をしたとしても、無自覚であることが多いのではないか……と思えます。
アイドルに熱中することを代償行為と気づけず、軽率に輝かしい自己像を抱くこともまた、(自分や周囲を不幸にしかねないという意味で)「悪いこと」の範疇ではないでしょうか。
・ジャニーズ問題から目を背けている、本
その証拠に――とつなげますが――第6章「ジャニーズ問題と私たち――性加害とファン文化の不幸な関係」を見ても、そこに「反省」はありません。
そう、ジャニーズ問題について、こんなの六〇年代からずっと言われ続けてきたことで、多くの「ジャニオタ」も、知りながら素知らぬ顔でファンでいたのではないかと批判されました。事件が騒がれる前(といっても『文春』によってタレントたちの証言がとっくに出ている段階で)柴田英里師匠はジャニーズアイドルに軽薄に萌えながら、「噂は噂にすぎない」などと一蹴していました。
柴田英里「新緑のアクアリウム──ジャニー喜多川の少年愛」を読む
翻って田中師匠は「私たちのまなざしそのものが問題の本質を隠蔽させていたのではないか(大意・143p)」などと言うので、「あ、満更でもないな」と思っていたら、それ以降は延々芸能事務所やマスコミのあり方へのご意見が続きます。
本当にちらっとだけ、ファンも悪いようなことも言っていますが、何かそれも、女性ファンを貶めていた世間が悪いみたいなハナシになっていきます(154p)。
しかも、アイドルの応援を軽蔑に値する文化であると断じ、ファンの女性を侮蔑し、ミソジニー(女性嫌悪)と結びつけた悪感情に満ちた言葉が、ファンコミュニティの外側から雨あられと飛んでくる。内情を知らぬ者たちに、別のファン文化と比較され、優劣を付けられもする。
(155p)
何かよくわかりませんが、全て男のせいということになったみたいです。
しかしね、そこまでアイドルファンをやってるだけで叩かれるのが本当なら、それについて検証する本を出しゃいいと思うんですけどね。
「別のファン文化と比較され、優劣を付けられ」るって、幼い少年たちがジャニーに受けてきたことを考えれば、どう考えても、どうでもいいような、鼻で笑い飛ばされるようなことでしかないし、こうした「被害感情」も責を人に押しつけるため、急遽発動したものじゃないでしょうか。
「ジャニオタ」の元ジャニーズの告発者への攻撃についてはさすがにスルーできなかったのか、ちらと触れてはいますが、自殺者を出したことについては言及がありません。結局、フェミは誰も少年への性的虐待について真摯に向きあうことはなかったわけです。
この問題をジャニーズに特有のものとせずに日本社会に蔓延る普遍的な課題として捉えていくためには、エンターテイメント業界でこれまで浮かび上がってきた女性による性被害の訴えもまた過去にさかのぼって検証し直す必要がある。
(158p)
あぁ、そうですか、よかったですね。
・何か「男の娘」とか書いてある、本
――さて、最後にちょっと、第9章についても触れておかねばなりません。
オタクについての言及がほとんどない本書ですが、この章ではコスプレが、しかも「男の娘」についてが妙に子細に語られます。
特に、若くてかわいくてきれいな女性キャラクターや萌え系の女性キャラクターのコスプレを男性がした場合、それは「コスプレ」であるのと同時に「男の娘」でもある。
(221p)
えええええぇぇぇぇぇ~~~~~っっっっっ!!!!!?????
何故!? どうして!?
萌え系の二次元のキャラを「男の娘」と呼ぶのであって、そのコスプレはあくまで「男の娘」のコスプレ、です。
異性愛の対象を自身の身体に憑依させるということよりも、むしろ、もっと直接的に「オンナノコ」になり、むしろ「異性」である男性たちに可愛がられたという受動的な欲求の発露である。
(同p)
えええええぇぇぇぇぇ~~~~~っっっっっ!!!!!?????
何故!? どうして!?
根拠は一切、示されません。
女子スペースに侵入し、性犯罪を繰り返すオカマが後を絶たないことを考えてもわかるように、「女性化願望」と「同性愛」の間には溝があるわけで、そこを単線的につなぐ師匠の考えは全く当を得ていないでしょう。
ここでは「自分を男の娘だと思い込んでいる一般オカマ」についてひたすら書かれるばかりで、「男の娘」については全く言及がありません。例えばブリジット、例えば綾崎ハヤテ、例えばローラ・ローラなどについては、潔いほどに。本書のタイトルにオタクと冠されながら、最後までオタクについて全く書かれないことと、「完全に一致」して。
これはそれこそ上にも挙げたブリジットが数年前、「トランスにさせられた」のと同様の、オタク文化のLGBTによる誤用であり曲解であり簒奪です。
今は亡き遙かなる男の娘へ
案の定、師匠はLGBTアライなのですが、それにしても一体何をどのようにすれば、ここまで卑劣で陰惨で残酷なことができるんでしょうか。
・何か自分語りで締められる、本
女オタクの嗜好性は、規範的な女らしさとの切断の回路だ。しかし、同時にそれは、切断されたものとのオルタナティブな関係を再生する試みにもなりうる。
(227p)
本書の最終章である第十章の書き出しです。
どう思われたでしょう。
この十章では急に情緒的な自分語りが始まります。
活字中毒でロジカルにしゃべる女の子が小・中学校の女子のグループに受け入れてもらうのは、極めて困難なことだった。本やマンガやアニメやロックやSFが好きで、解釈論ばかりを繰り広げ、あげく「結婚制度には反対」とか言っていた私は、今思い返すとあまり同級生ウケの良い子供ではなかった。
ガキっぽい趣味の同年代の男の子たちには嫌われていたし、バレンタインの手作りチョコレートにおまじないをかけているような同年代の女の子たちにも、あまり好かれてはいなかった……と思う。
(同p)
いかが思われたでしょうか、みなさん。
オタクというのはナイーブで聡明な存在であり、気持ちはよくわかるし、自分も『エヴァ』を観ながら、似たようなことを考えていた気もします。
あ、ロックとかSF趣味を誇らしげに開陳している辺りは赤面してしまいますが、それはまあ、世代的に仕方がないのだと、許してあげてください。
ともあれ師匠は、そんな自分を、オタク趣味がいかに救ってくれたかという追想を始め、それそのものにはぼく自身も共感を覚えます。
問題は、男の子たちをガキっぽいと貶め、また自分以外の女の子たちの恋愛脳を蔑む彼女が、本人が言うほどに「ロジカルにしゃべる」女の子だったら、こんな論理性に欠ける本を書いたりはしないのではないか、ということですが。
つまり、田中師匠が自分の「非リア充」性の原因を自分の知性に求めているのに対し、いささかの疑念が湧かないではないわけです。
冒頭の「女オタクの嗜好性は、規範的な女らしさとの切断の回路」というのは要するに「オタク女子は通常の女らしさを持っていない」との主張です。何しろBLなどは「男しかいない世界」ですから、何とはなしに騙される人もいるのですが、ここまであどけなくアイドル萌え話が開陳された後では、それを信じる気になれるでしょうか。
続いて「切断されたものとのオルタナティブな関係を再生する試み」とあるのは、要するに「BLで女のいない世界を描くのもいいけど、三次元のアイドルに姫扱いされるのもいーな」という意味なのです。
これは同時に、バレンタインの手作りチョコレートに夢中になっていた他の女子たちを見下しているように見えた師匠が、実は羨望していたのだ、ということでもあります。
同章では十年ほど前に2.5次元の世界(要するに漫画などを原作とするミュージカル)にハマったことが書かれており、まあ、オタク趣味が普遍化したおかげでホストクラブに好みのイケメンが溢れるようになってよかったねと、いえ、「ホストクラブ」というのは言葉のアヤですが、要するに師匠はそういうことをおっしゃっているわけです。
言うなら上野千鶴子師匠が結婚しながら「結婚制度は悪」と言っているようなもので、こちらとしては「完全敗北宣言だな」と思うのですが、おそらくご当人にその自覚はない。
フェミニストは男が好きで好きでたまらない、フツーの愚かで可愛いオンナノコ(の、なれの果て)でした。
だから、市場もまたその欲望を汲んで、ホスト――じゃなくて、何だ、その、イケメン君たちを用意してくれました。
その快楽を存分に享受しながら、今日も彼女らは相も変わらず十年一日のフェミニズムを、念仏の如く唱え続けるのでした。
めでたしめでたし。