あ、どうもこんばんは、いい大人達のオッサンです。
先日、チャンネル会員限定ラジオ動画にて『頭がよくなりたいと思った瞬間』なるトークテーマで1本収録&投稿して以降、頭の良さとはなんぞや、勉強とはなんぞや、と改めて自問自答を繰り返し、脳内思考迷路を楽しんでいる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
動画URL→https://www.nicovideo.jp/watch/so41636556
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過去にも度々話題としていますが、私オッサン、過去 学生時代においては自他共に認める赤点大魔王の称号を欲しいままにしておりまして。 遡って頭の悪さ、勉強の不出来を自覚し始めたのは小学校2年生の終わりごろ、算数の授業において所謂『虫食い問題』が出始めた辺りからで、当時の担任の先生には大変ご迷惑をお掛けしたものです。
たとえば、こんな虫食い問題。
まぁ大変!
虫さんが、とちゅうのすうじを食べちゃったみたいだよ!
このままじゃけいさんできないよ~!
みんなはわかるかなぁ~!?
1+□=2
□のすうじは なんだろう!?
恐らく皆さん、なんの淀みもなく【1】と解答なさるでしょう、大人になった今の私オッサンならば、とりあえずそう解答します。
でも、当時のオッサン少年が考えたのは、『どこに虫がいるの?』『虫は数字を食べるの?』『なぜその数字だけ食べたの?』『そもそもそんな虫を近づけさせちゃだめ』『そんな虫がいるならはやくやっつけないとほかの数字も食べられちゃう』といった、そもそもそこに【虫】が存在する事への疑問ばかりだった事を鮮明に覚えています。 当時の担任の先生、本当に申し訳ない・・・!
しかも厄介なのは、当時はそれを悪ふざけで言ってるんじゃなくて、本気でそう考えていた事。 そして、まわりの級友たちがそんな事など気にもかけず、むしろ私オッサン少年を変な目で見てくる事に恐怖すら感じたほどです、だってみんな【虫】をまったく気にしておらず、その【虫】を放置する事になんの疑問も感じてないんですもの、すげぇ怖かった。
しかしこのままでは、オッサン少年だけ算数の授業が先に進まなくなってしまう。 そこで先生があの手この手で導いてくれて、最終的になんとか脱出口を見つけるんですが、その辺の話はこの記事のラスト、チャンネル会員限定スペースで書いてみようかなと。
その前に、まずはお知らせ!
明日1月14日(土)は13:00より、メンバーのマッツァンによる『ゼノブレイド3』長時間生放送を予定しております、曰く、いよいよ最終決戦に突入するのではとのこと、お楽しみに!
さらに明後日1月15日(日)は15:00より、新春特番『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』長時間生放送の延長戦を予定、第1~2回の放送で『ガノンの塔』まで到達、延長戦となる第3回目の放送では、その攻略からのスタートとなります!
お楽しみに!
※第1~2回目のタイムシフト視聴はこちらから、放送日から180日間 視聴可能です。
さて、それでは『虫食い問題』の話に戻しまして。
【数字を食べる虫】の存在に気を取られるオッサン少年。
授業後、先生から↓このように提案されたのを覚えています。
先生
『あのね、オッサンくん。
べつに【虫】じゃなくても良いのよ?』
コメント
コメントを書く良い話だなあ(´;ω;`)
だけど、私の記憶だと、小学校の虫食い問題で
「まぁ大変!虫さんが、とちゅうのすうじを食べちゃったみたいだよ!」
みたいなのはなかった気がするんですよね……。
小さき頃のオッサンが、教科書を変えた?(多分違
なんというか、オッサンは今も昔も
「今考えなくていい事を考える(のが好き)」
「今やっていることの目的が何か、がすぐにズレて脱線する(のが好き)」
という人なんだなぁと改めて思いました
良いとか悪いとかではなく。
ある意味で、すごく頭が良くてすごく頭が悪い両極端を行っている気がしますw
「野比のび太」ってなんとなくフニャフニャした名前だよなー、というイメージしかなかったけど
今思えば頭もよくなくて性格もとぼけてて、運動音痴で、結構欲深いけど誰にも負けない特技があったりちょっと人とちがう発想ができたり、ゆっくりだけど深くものを考えられる男の子の名前に、「のびのびと」っていう言葉の音を与えた藤子先生のこどもや教育に対する思いのあり方は今の時代改めてハッとさせられるなぁと思いますね
多様性って言葉を最近よく聞くけど、決して特別にかっこよくはないのび太の存在って、僕らにとっていろんな考え方をもつ上での大切な下地になってくれてるような気がします
(つーかどこでもすぐ寝られるの羨…)
とても立派で何処かに寄贈だか保管だかされてるんでしたっけか?オッサンさんの盲腸。
「利口」というのは「勉強が出来る」というよりも「要領がいい」というイメージがあります。勉強が出来なくても巧く立ち回って先生から怒られずに済んでいる生徒とか居るじゃないですか?アレです。幼少の頃のオッサンさんは感性には優れていたのだと思います。文章題に於いて別の根本的な問題点に目を付けて疑問に思う感性はただ答えを導き出すよりもある種頭の良い発想だとは思います。例えるならばお腹の空いている人にただ一時食べ物を与えるのか、今後自分で食べ物を得る為の方法を教えるのかの違いです。その考え方は大切なものと思います。然し乍ら悲しいかな学校教育というものはある種の工場みたいなもので、そういう個性を伸ばすのではなく逸脱した箇所を削り取って既定の形に揃えていくかの様なものと自分は感じました。そこでただ必要な数値を求めるという所に至らなかった幼少の頃のオッサンさんはとある言葉を借りれば「生き方が下手だなぁ」という感じであったのだと思います。
結局のところ「頭の良さ」というのは単純に学力ではなく「問題に直面した際にどう立ち回るか」だと自分は思います。ちょっとキャバクラの例え話になりますが、キャバ嬢が接客する際に相手に話を合わせられるよう世の中の情報を常に仕入れなくてはいけないという話を聞いたことがあります。しかし、あるキャバ嬢は客のする話を知らない事で相手を「そんな事知ってるなんてスゴイ!」「もっと教えて!」とヨイショして教えを乞う事で客に気持ちよく話をさせるという手法で人気を博していたという話を聞いたことがあります。これに関しては単純に色々と知っている事よりも知らない事を上手く武器に昇華したな、と自分も感心したものです。・・・いや、自分はキャバクラとか行ってないですよ?違うんっス、ウチの周りクソ田舎なんでキャバクラとか辺りに無いんっス。
それに、こういう言い方をすると申し訳無いのですがちょっとおバカな方が愛嬌があってカワイイとか親しみやすいみたいな感覚ってあるじゃないですか?ただ「頭が良い」という事が必ずしもプラスにだけなるという事ではないと思います。
多分ですけれども、例えばタイチョー殿が出木杉君ばりに頭が良かったらいい大人達さんが今の様に人気のグループになっていなかったのではないかと自分は思います。いや、分んないっスけどね。少なくとも今の様な「いい大人達」ではなく、自分もここまで肩入れしてはいなかったものと思います。いや、分んないっスけどね。
まぁ要は『りこうになりたい、頭よくなりたい』という向上心は大切ですが、あまり自分達を卑下しないで自信を持って下さい。あと自分は頭も良くなりたいけどそれ以上に顔が良くなりたいかもしんない。顔が良ければ頭が悪くても許される風潮ってあるじゃないですか?ね。
ところであんま関係無いですがよく昔話で聞くオッサンさん界隈の教師陣はもっと理不尽な立ち振る舞いをしているイメージが強いのでああいった場合「余計な事を考えてないで早く問題を解け!」と頬の一発でも引っ叩いて来そうな感があります。その当時の担任の先生相対的にドチャクソいい先生だったのでは?
(因みに方向性は違いますが自分も学生時代に一時期、学年でも有名な問題児だった事があります。3年生の時の話なのですがよく授業をフケて友達と遊んだりして当時の担任を泣かせたりしたこともあります。当然テストも真っ当な点数は取れませんでしたし通信表も惨憺たるものでした。それでも今はこうして立派に社会人をしており養分をやっていけてます。学生時代のアレコレなどは今ではいい笑い話ですよ。あ、3年生っていうのは小学3年生の話です。HAHAHA!(ここ迄でこの話のオチ。それとは関係無く高校の頃はよく赤点を取っていたという。))
オッサンの昔話にしては珍しくちゃんと先生してる
オッサン少年時代はエジソン少年時代によく似てる
お金に汚い発明王トーマス・エジソン、少年時代に
1+1=2を教わる際に泥団子を手本にした授業で
2つを混ぜて1つにし1+1=1と納得しなかった。
神童は少なからず生まれるが、全てが理解されるわけでなく
幸運にも理解を得て世に出た者が「天才」と呼ばれるのが世の常。
オッサンは頑固ささえ抜ければとてつもない利口な人間にぐーーーんと伸びる可能性を秘めてると思うなぁ。
惜しむらくはオッサンの育成環境や時代が世紀末だったことだなぁ…。良い師にさえ出会っていればなぁ…。
まぁそのおかげで今のオッサンがいて、俺らが楽しめてるから良いんだけどさ。
なんか分かる気がする。
公式だけ先に教えられて、「なんでこうなるの?」が気になって授業に集中できなかったことがある。
子供がどこに躓いているのか、それをどう解消できるのかに気づける先生で良かった、本当に。
自分にとって悪い先生も良い先生も、どっちも記憶に残るよね。
オッサンさんはラジオ動画とかでも「(テーマ)とはまず何か」から考えたがったり、そういう性質はその頃からだったんだなぁって感じますねぇ
そういうところがゲームのギミック解きとか適応の早さに活かされているのかもしれませんね
オッサンさんの昔話「学校編」にしては珍しくまともな先生がw
さて、例え話は「今目の前にない事象、現実に起こってない想像上の話」を扱うので、比較的高度な認知能力を要します。「ついさっきまで黒板や教科書に書いてあることを話してたのに今は何の話をしてるの?」「急に先生の話題が飛んだ」と感じてしまい、混乱するようです。
なので知能の発展途上にある子供の頃に分からないのは別に問題ではないと思います。
大人になった今は理解できているのであれば別に良いかと。
友人に教師がいますが、やはり例え話を持ち出すと混乱する子はいるそうです。
また、例え話は「本当に現実に存在する訳ではない話」をしているため、「そんなことあり得ない!先生が嘘をついた!」と感じて生徒から不信感を持たれてしまうケースもあるそうです。(教育って難しいですね)
他にも、算数の問題文にリンゴやミカンが数を数える際によく用いられますが、
「なんでリンゴなの?」という根本的な疑問につまずいたり、
「リンゴ」が「靴」などの別の物に変わると「何で変わったの?解き方が変わるってこと?」と勘違いしたりすることもあるそうです。
前者は注目すべき論点がずれている(国語ではなく算数なので重要なのはそこじゃない)、後者は数学的思考に対する本質的理解が未到達だと言えます。
こういう時、後の理解のためにも「なぜそこは重要じゃないのか」「算数(数学)とはどういうものなのか」をしっかり説明して納得してもらうよう努めるのが教える側の義務だ、と個人的には思っています。
とは言え、分からないことを放置するのも悪い一方、あまり特定のポイントにこだわりすぎると却って大局的に捉えられず、本質や本当に重要なポイントを見失い、結果マイナスの面が後々まで響くこともあるので、疑問を持つことを常に肯定するという姿勢も考えものだったり・・・
ここら辺の塩梅が難しいところですね。