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小説『神神化身』第二部 二十五話  「奔雷」
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小説『神神化身』第二部 二十五話  「奔雷」

2021-10-29 19:00

    小説『神神化身』第二部 
    第二十五話

    「奔雷


     目の前に広がるは雄大な海。神々しき霊峰富士山を抱く、三保松原(みほのまつばら)の海である。幼い頃は親に連れられ、大きくなってからは巡(めぐり)と訪れた場所だ。佐久夜(さくや)にとっての故郷の海とは三保松原のことであり、ここは海を語る時に最初に持ち出される青だった。
     その場所に、九条鵺雲(くじょうやくも)の姿はよく似合っていた。潮風の似合うことが、彼の故郷が海に縁深いことの証明に思えた。佐久夜は彼の故郷の海を知らない。こちらが、同等に美しいものであることを願った。
     じっと見つめていると、視線に気がついたのか鵺雲が振り返った。いつものような笑顔が浮かぶ。完璧で、こちらの求めているものが何かを理解しているが故の微笑みだった。
    「三保松原には初めて来たよ。どうしてここに?」
    「あなたは相模國(さがみのくに)のお生まれですから、海に感じ入るところがあるのではないかと」
    「なるほどね。確かに、浪磯(ろういそ)の海が懐かしくなることはあるよ。あそこには比鷺(ひさぎ)もいるし、比鷺はあの海が好きだったから」
     そう言って、鵺雲はもう一度海に目を向けた。
    「ここの海もとても綺麗だよ。海は浪磯に繋がっているんだね」
     懐かしそうに目を細めるので、やはりここに連れてきたのは正解だったのだろう、と佐久夜は思う。ゲームセンターやカフェなども選択肢としてはありなのだろうが、こちらの方が鵺雲には似合っている。
    「海に連れて来ようとした理由は分かったよ。どうしてそんなに僕を連れ出したいのかなと思うところではあるけれど」
    「単に連れ出したいわけではありません」
    「訂正するよ。どうしてそんなに僕を楽しませたいのかな、と思うところではあるけれど」
     鵺雲は小さく笑い声を立てる。およそからかっているかのような仕草だったが、佐久夜はその声に身体の芯を握られた心地になる。

     技術面だけ見れば、佐久夜の舞奏(まいかなず)は目に見えて上達してきていた。それが自分の舞奏である、とはっきり言えるものであるのかは分からないが、ただ形を真似ていただけの時よりもずっと見栄えがよくなった気がしていた。
     佐久夜が覡主(げきしゅ)候補に名乗りを挙げてからは、鵺雲も佐久夜に直接的なアドバイスをすることは無くなった。恐らくは、巡と同じ理由なのだろう。舞奏が舞い手そのものを表すものなのであれば、言葉を与えるだけ野暮になる。
     伴って、鵺雲が佐久夜を自身の宿に呼ぶことも無くなった。あまりにもあっさりと手綱が放された感覚に、腹の底が少しだけ落ち着かなくなる。
     だが、それでも鵺雲は泊まっているところの名前だけは、都度変える度に教えてくれていた。呼びはしないが、佐久夜が訪問することを拒むこともなかった。だから佐久夜は、自分の舞奏を自ら見せに行くようになった。
     前のような、呼び出され、御斯葉衆(みしばしゅう)の覡(げき)の一員として相応しくなるべく指導される為のものではない。ただ、鵺雲に舞奏を見せたいが故の訪問だ。いつの間にか全てが顛倒してしまっている。これは一体、いつからだっただろうか。
     特に言葉を交わさなくても、鵺雲が佐久夜の舞奏をどう思っているかは窺い知ることが出来た。まだ自分は如何ほども足りていない。これはまだ見られたものだった。
     そして、今回のものは出色の出来だった。
    「今のはなかなか良かったと思うよ」
     数回目に至ってようやくこの言葉を引き出せたことに安堵する。自分が正しい方向に向かっているのか、果たして何が変わったのかも分からないが、鵺雲が言うのだから間違いではないのだ。
    「佐久夜くんは本当に頑張っているね。見違えるようだよ」
    「……そうですか。自分では、どう変われているのか」
    「それだけの変化をしながら、自分の腹の内にあるものに自覚がないというのも面白いけれど」
     思わず、自分の腹に手をやってしまう。この腹の内に何があって、それが舞奏にどう作用しているのだろうか。悩む佐久夜に対し、鵺雲は言った。
    「そうだ。最近は社人(やしろびと)の通常業務に加えて稽古もこなしているんでしょう? 何か一つ、労いをあげようか。僕にあげられるものなら何でもあげる」
    「労い……」
     思いがけない言葉に、一瞬口ごもってしまった。
    「何でもいいよ。佐久夜くんは健啖家だからね。僕が好きなだけ食べさせてあげようかな。牛一頭くらいなら余裕だよ」
    「俺の方は余裕ではありませんが……」
    「そうなんだ。あれだけ大量のステーキを黙々と食べられるから、そのくらい大丈夫なのかと……ちゃんと留意しておくね」
     冗談なのか何なのか分からない言葉を口にしながら、鵺雲が大きく頷く。自分の欲深い腹の中で、鵺雲の言葉を吟味した。何でも。

     そうして佐久夜がお願いしたのは、ここに来ることだった。
     今までとはまた違う、正真正銘佐久夜の求めによる外出だ。鵺雲は少し意外そうな顔をしたが、断る理由も無いからという理由で了承してくれた。
     車を出して一時間ちょっとの道程で、佐久夜は色々と鵺雲に質問をした。まるでインタビューのような様相を呈していたけれど、どれだけ質問を重ねても、鵺雲自身のことはあまり見えてこないのだ。まるで誰かのプロフィールを転写したかのように、整ってはいるが輪郭しかない。
    「ああでも、中学生の頃に崖から落ちてしまったことはあって。あの時は本当にびっくりしてしまったかな。あれは予想外のことがとても多くて」
     唯一、そのエピソードを話した時だけは、鵺雲の表情に色が乗った。よほど印象的だったのだろうか。身体が何より重要な覡であるからこそ、深い恐怖を覚えたのだろうか。それにしては、彼の目に浮かんだ懐かしさの色は柔らかかった。
     そうしているうちに三保松原に着いた。車を停め、海岸まで歩いて行く。
     鵺雲はしばらく黙って海を眺めていたが、不意に波打ち際に足を進めた。そして、履いていた靴を丁寧に脱ぐ。
    「鵺雲さん?」
    「実はね、浪磯に住んでいた頃から、あまり海に入ったことはなかったんだ。比鷺はよくお友達と入っていたようなのだけど」
     そう言って、鵺雲が波の中に足を晒した。
    「ひゃっ、冷たい」
    「この時期ですから」
     佐久夜も慌てて靴を脱ぎ、同じように海水に足を晒す。夏真っ盛りとは言えない時期だ。海をこうして楽しむには遅すぎる。
    「わあ……絶え間なく冷たいね。ずっと冷たいんだね、多分」
    「この時期ですから……」
    「ああでも、足首が波に晒されるのは気持ちがいいかも。肌と海との境目が無くなるみたい」
     鵺雲はまじまじと自分の足首を見ている。本当に海に入った経験に乏しいらしい。自分と巡だったら、夏になる度に同じように海水と親しんでいたというのに。
    「急にこんなことをなさるので驚きました。あとで車からタオルを取ってきますから、鵺雲さんは待っていてください」
    「うん。僕も驚いてるよ。でも、佐久夜くんがいるなら、このくらい試してみてもいいのかもしれないと思って」
     そう言って、鵺雲は白い手を器のようにして、海水を掬った。指先から雨のように海水が滴るのに合わせて、鵺雲が言った。
    「連れてきてくれてありがとう、佐久夜くん」

     しばらく波と戯れた後は、何をするでもなく辺りを散策した。
    「そういえば、この辺りは羽衣(はごろも)伝説が残っているんですよ」
    「羽衣伝説って、あの……天女が羽衣を奪われる話?」
    「そうです」
     羽衣伝説は、浜の近くに住む漁師が松の木の枝に掛かった羽衣を見つけるところから始まる。世にも美しいその羽衣を持ち帰ろうとすると、天女が現れ『それが無いと天の国に帰れません』と涙を流しながら言うのだ。漁師は羽衣を返す代わりに、天女に舞を見せてもらうよう頼む。天女は漁師の求め通り舞を披露し、天の国に帰っていったという。
     三保松原には、羽衣の掛かっていたという松がある。この話をしている時に、丁度、一際大きな松が見えた。まるで双翼のように枝を広げている、優雅な佇まいだった。
    「へえ、風情のある立派な木だね。確かに羽衣を掛けるに相応しいかもしれない」
     鵺雲がそう言って笑う。
    「遠江國(とおとうみのくに)には綺麗なところが沢山あるね」
     相模國もそうでしょう、と言いかけてやめた。元にいた場所の名前を改めて持ち出す理由もない。やはり、鵺雲にとっては相模國が故郷であって、遠江國は一時降り立つ地上なのだろう。
     舞奏競が終われば、そこで自分達が勝てなかったら。
     天女だって舞一つで帰るのだ。九条鵺雲だってそうあって然るべきなのかもしれない。
    「羽衣伝説にはね、舞奏と結びつけて語られるようになった亜種もあるんだ」
     そんな折に、鵺雲が不意に言った。
    「……亜種、ですか」
     秘上(ひめがみ)の家は社人の家系だが、そういった話は聞いたことがない。訝しげな顔をしていることに気がついたのか、鵺雲が「九条家の蒐集(しゅうしゅう)の度合いは君の想像を遙かに超えるものだから」と笑った。
    「社人の家は所属する舞奏社(まいかなずのやしろ)を守ることが役目であって、伝承を集めることではないでしょう? だから気にすることはないよ」
    「……お心遣い痛み入ります。それで、その羽衣伝説とは?」
    「地上の生活に憧れた天女は、松の枝に羽衣を掛け、しばし人間として過ごし楽しんだ。けれど、天人達はその振る舞いを許さず、天界に戻ることを禁じ、羽衣を取り上げてしまった。そこにカミが救いの手を差し伸べた。もし素晴らしい舞奏を奉じ、人々の歓心を得れば、代わりの羽衣をあげようとね」
     なるほど、その部分がカミに置き換わっているわけか、と佐久夜は納得する。羽衣伝説には元より舞の要素が入っているから、カミの伝承と擦り合わせやすいのだろう。
    「天女はそれはもう優雅な舞奏を奉じ、人々の歓心を十二分に集めた。カミは約束通り、天女に新たな羽衣を与えた。しかし、その羽衣は歓心で編まれたものであるので、今後も歓心を得続けなければならない。以来天女は、今の大祝宴と同じ周期である三年に一度地上に降り、人々の前で舞奏を披露するようになった。そういう話だよ」
    「……なるほど、現在の舞奏競と重ね合わせてあるのですね」
    「なかなか興味深いでしょう?」
     佐久夜は頷く。その時、大きな風が吹いた。このままここにいさせるのは、鵺雲の身体に障るかもしれない。
    「そろそろ帰りましょうか」
    「え? まだ夕暮れは遠いよ?」
    「え?」
     思わず、同じ言葉を返してしまう。すると、鵺雲が少し気まずそうに笑った。
    「そうだな。まだ帰るには惜しいような気がしてしまって。あれ? こんなことを言い出すのは、なんか僕らしくないような気がするんだけど……」
     自分でも不思議そうに鵺雲が言う。一瞬の逡巡があった。確かに、今までの鵺雲なら言わなかったかもしれない。だが、それを言うなら波に足を晒すことすら、今までの鵺雲には無かったはずのことなのだ。
    「……それなら、何か食べて帰りましょうか」
     腹の内にあるものを抑えて、佐久夜は静かに提案する。鵺雲がいつもより少しだけ綻んだ笑顔で頷く。

       *

     巡が舞奏を再開して以降、周りの目は明らかに変わった。
     栄柴(さかしば)の道楽息子と蔑んでいた観囃子は、素晴らしい血を色濃く引いた跡継ぎと見るようになった。地元の人々も舞奏披が活気づくと喜び、巡に感謝するようになった。遠江國の舞奏が有名になれば、多くの人が遠江國にやって来るからだ。
     舞奏に興味のない女の子達からの反応も変わった。巡が今取り組んでいる舞奏というものがどんなものかは、彼が一つ舞ってみれば分かることだ。普段は真剣さを見せない巡が、舞う時に見せる表情は魅力的だった。
    「やはり栄柴の舞奏は素晴らしい。先代の舞奏も素晴らしかったが、当代の舞奏は一入だ。流石は遠江國きっての天才と呼ばれるだけのことはある」
     遠江國きっての天才。その肩書は、幼い頃に失くしてしまったもののはずだ。それが、いつの間にやら返ってきている。自分はやはり、栄柴の血に見合うだけの実力を備えていたらしい。
     今まで自分が欲しかったものが──愛情と承認が、舞奏をするだけで得られている。掌を返されるのがあまりにも早い。返った掌で打たれる拍手の音は、巡の心をそれなりに満たしてくれた。
     だが、それだけだった。
     この急激な変化にも、巡はどこか凪いでいた。それはそうなるだろう、という納得があるだけだ。自分が舞奏をすればそうなる。何しろ、これがみんなのずっと欲しがっていたものなのだから。巡はそれを提供出来なかったわけじゃない。しなかっただけだ。
     これらの賞賛を糧にして生きていくには、少し時間が経ちすぎた。
     ただ一人の人間に認められたい、と思ってしまってはもう駄目だ。秘上佐久夜に認められたい。九条鵺雲の舞奏よりも、栄柴巡の舞奏が上だと言わせたい。
     佐久夜の承認が無ければ満たされないのだ。自分だって、抜け出せるのなら抜け出したい。だが、もう逃げられない。自分はもう夜叉の皿の上だ。逃れられない。
     それならそれで構わない。
     それで自分の求めているものが──ただ一人の人間が手に入るのなら。
     夜の闇の中に人影が見えた。駐車場に車を停め、帰宅を急いでいるのだろう。巡は目当ての人物に声を掛けた。
    「偶然だね、佐久ちゃん」
     声を掛けられた佐久夜は、遠目からも分かるくらい身を固くしていた。
    「そんな驚かないでよ。俺らここでよく待ち合わせしてたでしょ」
     舞奏社近くのブランコで、巡はずっと佐久夜のことを待っていた。ここにいれば、佐久夜はいつも巡のことを見つけてくれたのだ。だから、今日も同じことをした。
    「佐久ちゃんに用事があってさ、家に行ったんだよ。社(やしろ)にも。でもいなくてさあ。最近すれ違ってばっかりだよね」
     佐久夜が巡のところにゆっくりと歩み寄ってくる。けれど、ブランコには乗らず、向かい合わせになった。
    「……用があるなら連絡してくれれば良かっただろう。俺はどこにでも行った」
    「そうだね。そうかもね。でも、少し時間がかかったでしょ」
     佐久夜の顔がわかりやすく強張るのを見て、巡は内心で溜息を吐いた。別に誤魔化さなくてもいい。こちらには全部分かっていることだ。
    「今回はどこに行ったの? 鵺雲さんのところに行くだけじゃ、こんなに遅くはならないよね」
    「……海に」
     佐久夜が静かに答えた。
    「へえ、そうなんだ。俺も行きたかったけど、栄柴家の息子としてちゃんと振る舞うようになったら、意外と忙しくてさ。色んな人が俺に会いに来るんだよ。もしかしたら、鵺雲さんも同じようなことをして生きてきたのかな」
     そうだとしたら、九条鵺雲にも同情してしまう。家の名前を背負って立つことがどれだけのことか、再開して間もなくの巡にも分かってしまう。九条の家は今でも高名だから、尚更重圧も大きいはずだ。だからこそ、九条鵺雲のような人間が出来上がったのだろうけれど。
    「忙しくてさ。でも、楽しくもあるよ。みんなが俺のことを認めてくれて、愛してくれて……一つ舞奏を見せるだけで、栄柴の家に相応しいって言ってくれるんだから」
    「そうだ。お前の舞奏にはそれだけの価値がある」
     佐久夜がそこだけははっきりと言う。その言葉に嘘は無いんだろう。目を見れば分かってしまう。
    「今の俺は栄柴家の跡取りとしての役割を、改めてやっているみたいだね。やっぱ窮屈だけど、やりがい? はあるかな」
    「……そうか」
    「その代わりに、佐久ちゃんは鵺雲さんを連れ出そうとしてるの?」
     佐久夜は立ったまま、動かない。隣のブランコには座らない。
    「知ってんだよ? 佐久ちゃんが俺には内緒で鵺雲さんと会ってるの」
    「……お前に隠していたわけではない」
    「うん、敢えて言わないだけだもんね。今日みたいに、ただいないだけ」
     社にも家にもいないのを見て、巡は置いていかれてしまったことを知るのだ。今まではそんなことはなかった。ずっと自分の傍にいてくれたのに。
    「それにしても海かぁって思ったよ」
    「…………」
    「佐久ちゃん、すっごく鵺雲さんのことを考えてるんだね」
     今までどこに行っていたか知らないが、海は佐久夜の心が窺えてしまう。大方、九条鵺雲が楽しめるところを考えた末に、故郷に近いところを選んだのだろう。その気遣いなんなんだよ、と巡は思う。本気であの人に喜んでほしいみたいじゃん。
    「佐久ちゃんはさ、鵺雲さんに舞奏以外の楽しいことを教えたいんだよね。あの人、本当に舞奏以外何にも無い人みたいだから。まるで昔の俺みたい」
     舞奏しか自分に無いと思い込んでいた時は、舞奏だけに純粋に打ち込めていた気がする。自分と鵺雲の違いがあるとすれば、あの男がその生き方を苦にしていないところだろう。自分があそこで舞奏を辞めていなければ、鵺雲のようになっていただろうか。
    「……俺は、」
    「鵺雲さんと色々なところに行くとさ、鵺雲さん個人に触れられたみたいで楽しいでしょ。鵺雲さんだって楽しいんじゃないかな? だって、ここに来た時に比べて鵺雲さんは色々な表情を見せてくれるようになったもんね。佐久ちゃんはもっと色んな顔を見てるかな?」
     佐久夜があからさまに困っているのが分かる。巡のことをほったらかして、鵺雲とばかり会っている自覚があるからだろう。懐かしいな、と思う。巡が舞奏を辞めたばかりの頃、佐久夜はそうして巡を色々なところに連れて行ってくれた。
     あの時と佐久夜の目がまるで変わっていない。自分に掛けてくれた情の深さを知っているから、今の佐久夜の入れ込み方にも納得がいってしまう。
     佐久夜には分かっていないだろう。自分の腹の内にある衝動の意味が。
     だから、今巡が開いてやらなければならないのだ。強欲なる、その腹の内を。巡はいつもより数段明るい笑顔を浮かべて言った。
    「分かってるよ佐久ちゃん! 俺を勝たそうとしてくれてるんだよね!」
    「……は?」
     思いがけない言葉に、佐久夜が一瞬呆気に取られるのが分かる。その間に、巡は口早に並べ立てた。
    「舞奏以外に意識を割かせて、鵺雲さんの舞奏が下手になればいいなって思ってるんでしょ? 鵺雲さん、本当に外のこととか何も知らなそうだし、そっちに意識が取られるかもしれないもんね。案外ゲーセンにハマって舞奏が疎かになるとかさ」
    「そんなことが……あるわけないだろう」
     佐久夜がふいっと顔を背ける。けれど、巡は追及の手を緩めてやらない。
    「たはーっ、佐久ちゃんってば手厳しい! 俺もかなり真剣に考えたんだけどなー? どうよ、内部からのスパイ作戦! 超考えられてんだよ? 両面から!」
    「……どういう意味だ。何の両面……」
    「分からないの?」
     自分でもぞっとするくらい冷たい声が出た。巡の背に憑いた夜叉が、全てを喰らい尽くせと囁いている。いずれは巡も、夜叉に喰われる身の上だ。ならばその前に、巡が目の前の男を腹の内に収めてやればいい。
    「お前は、九条鵺雲に幸せになってほしいんだよ。舞奏に身を窶(やつ)すだけじゃなく、あの人個人の幸福を願ってる。何故か分かるか? 鵺雲さんが普通の人間みたいになったとしても、それでも舞奏が翳らなかったら、お前は罪悪感から解放されるもんね? 『ああ、人としての歓びを謳歌しても、舞奏に影響は無いんだ』って。『自分があそこで栄柴巡に一時の夢を見せたのは致命的な失敗ではなかった』って!」
     佐久夜は何も答えなかった。答えられないんだろう。
     どうしてそれを、とでも言わんばかりの顔だ。あまりに予想通りの表情に、笑いたくなってしまう。
    「俺、佐久ちゃんの考えてることなら分かるんだよ。どれだけ一緒にいたと思ってるの」
     とはいえ、気がついたのは最近だ。傍目から見ても分かってしまうほどに鵺雲に惹かれていく佐久夜を見て、どうしてこんなことが起こったのだろうと考えた末に、行き着いてしまった結論だ。なんで遠江國にいきなり現れた鵺雲に、佐久夜があれほど執着するのか。素晴らしい舞奏だけじゃなく、鵺雲の心まで欲しようとするのか。
     辿ってしまえば簡単な話だった。推理するまでもない。だがこれは、九条鵺雲さえ現れなければ、一生気がつかないでいられた真実だった。
    「ああ、分かるよ。鵺雲さんは俺の理想型。幼い頃に舞奏を捨て去らず成長した鏡合わせの理想像。だからお前は、九条鵺雲に焦がれる。あれはお前が一番取り戻したかったものなんだ。お前の求めた、本来の栄柴巡だ」
    「巡、俺は」
    「佐久ちゃん、俺のこと後悔してるんでしょ」
     口にしてしまうと、その言葉が喉を裂いた。どこもかしこも痛くてたまらない。
    「だから、再演しなくちゃならないんだ。理想を理想のままに置いていたら、お前は罪悪感で潰れてしまうから。同じ過ちを、同じように犯したいんだ。栄柴巡のことを終わらせたみたいに、九条鵺雲のことも終わらせたいんだろ?」
     もし、この期に及んで九条鵺雲の舞奏が栄柴巡のものより素晴らしかったら。そうしたら、佐久夜はどうなるだろう。その美しさに惹かれながらも、自分のやったことの重さに震えるはずだ。もしあそこで自分が余計なことを言わなければ、栄柴巡だってここに到達出来ていただろうと嘆きながら! それはそれで罪深い話だ。どうしたって、秘上佐久夜は救われない。
    「違う、俺は……俺は、」
    「あはは、いいんじゃない? 間違えない人間なんかいないよ! でもね、俺は正解を知ってる」
     巡の顔が、悲しげに歪んだ。
    「お前は俺が舞奏を捨てた時に、その目を潰せば良かったんだ」
     そうしたら、こんな霹靂も起こらなかった。ただ一つ、素晴らしかった栄柴巡の舞奏を抱いて、巡と共に余生を生きてくれればよかった。
    「……でも、今となっては喜ばしいことだよ。お前の目が潰れてなかったお陰で、俺が九条鵺雲に勝つところを見せてやれるんだからな」
    「…………」
    「鵺雲さんも鵺雲さんで、この一時で駄目になりようもない。お前の望む通りの素晴らしい舞奏を奉じて、お前の理想のままであってくれるんだろうさ。だが、俺はその上を行く」
     目は潰されなかった。自分と佐久夜は今もなお、この世を目に焼き付けながら生きている。生き永らえてしまったのだから、もう行くところまで行くしかない。
    「……俺は、お前に幸せであってほしかった。お前が望むことなら、何でも叶えてやりたかった。その気持ちは、嘘ではない」
     佐久夜が、絞り出すように言った。
    「分かってるよ。一番が違うだけだもんね」
     佐久夜が更に何か言うよりも先に、巡は先んじて言った。
    「……ま、単純に鵺雲さんとあんまり仲良くされると妬けちゃうってのもあるんだけどねー。ずうっと一緒にいたじゃん。佐久ちゃんの親友は俺でしょ?」
     そう言いながら、ブランコを下りる。理想型としての九条鵺雲が、そのまま理想型であってくれたら、佐久夜にとってはこれ以上のものはない。忠義と生涯を捧げるのなら、あちらを選ぶだろう。
     だが、そうはさせない。させてはやらない。
     佐久夜はまだ黙り込んでいた。元来言葉が上手い方でもない。自分の奥底にあるものを、巡に突きつけられて戦いているのだろうか。それとも──反論しようとしている? そう考えて、一笑した。それ以外に、秘上佐久夜の腹の底に何があるというのか。
    「ああ、そうだ。九条鵺雲はお前が思ってるような人間じゃないよ」
     振り向きざまに、巡はそう言ってやった。
     意地の悪いことを言っているわけじゃない。これはあくまで親友に対する忠告だった。
    「俺には分かるんだよね、あの人のこと。きっと、お前よりもずっと」
    「……そうなのかもしれないな」
     佐久夜が苦々しく呟く。そうして、巡はそれきり振り返らなかった。
     次に佐久夜を顧みる時は、全てを巡が取り戻した時だ。
     その目が真に栄柴巡だけを映すようになってからだ。





    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。





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