その2 武術における真剣勝負と実戦。(前半)
僕の学ぶ流儀は江戸時代に生まれた武術。武術を語る際によく言われていることがある。江戸時代は平和な時代となり、戦国時代ではなくなったため武術が堕落した、と。現代の常識で考えるとそう思える。まあ、現代の平和と江戸時代の平和はだいぶ違うが……。
僕の学ぶ流儀の五代前の先生は江戸末期を生きた先生だった。武術が堕落したと言われる江戸時代の末期。270年も続いた江戸時代の末期なのだから、さぞかし武術も堕落したのではないだろうか。
江戸時代の常識は現代とは全く違う。江戸時代と現代の日本は全く別の根国となっている。現代とは別の常識の中で生まれ、育まれたものこそが武術。五代前の先生はあだ討ちをしている。あだ討ちは法的に認められた人殺しなのだ。それが江戸時代では当たり前の常識だったりする。
その先生は幼い頃に姉を目の前で殺され、一念発起して流儀に入門。決死の努力を積み重ねた末、見事あだ討ちを成し遂げたという記録が残されている。あだ討ちとは真剣勝負。真剣勝負とは真剣を持って行うこと。素手ではどうやっても真剣勝負にはならない。これは現代の常識から想像しにくいだろうが、本当に真剣で命をかけた勝負をした人間からしてみたら、素手の拳での勝負は生ぬるいものなのだ。
真剣は軽く触れただけで切れる。だから急所に触れたら命が危ない。どんなに拳を鍛えたところで、そこまで至ることはないだろう。幼い頃からあだ討ちすることを心に決めて精進し、成人して見事あだ討ちを成し遂げた時の胸中は現代からは察することはできない。その努力も想像さえつかない。想像さえつかないことを流儀の学びの中で聞かせていただくことも、僕にとっては大切な時間になる。
武術を学ぶということは武術の歴史を学ぶことであり、見たこともないような遥かな時代の空気や景色を実際に感じる作業でもある。僕の学ぶ流儀には何百年の歴史の積み重ねがあり、それを途絶えることなく継承者から聞かせて頂く。この作業は武術を学ぶ上では絶対に欠かせないことなのだ。
ところがこういった作業をしている話というのはあまり聞いたことがない。実戦とは命を取ること。実戦で命をかけるということはあまりない。ただ一方的に命を取ることに努力を費やす。格闘技や武道とは根本的に別のことをやっているのだ。
流儀の相手は武術家だけではなく、相手の多くは忍びだ。忍びとは本当に存在した。スパイや暗殺が忍びの仕事。戦が途絶えた江戸時代でも暗殺はあった。あだ討ちも国が認めた行為だった。現代の常識では計り知れない命に関する常識が古流の武術の時代の日常だったりする。
ひとたび相手と交わればどちらかが命を落とす。これが古流の武術の現実。そんなことは恐ろしいので、できるだけ交わらずに相手を一方的に殺す。これが本当の武術だ。
相手の隙をつき一方的に切り捨てる。殴ったり蹴ったりはしない。武器を用いて一方的に殺す。その目的に特化した相手が忍び。忍びは戦わず、ただ一方的に相手を殺す。忍びとは格闘技のプロではない。殺人のプロであるのが忍び。忍びを相手にするのだから、忍びと同等、あるいはそれ以上に汚い卑怯な技を持つのが武術家の真実でもあるのだ。
それを嫌って正々堂々の試合を打ち出したのが武道だ。武道では試合を行う。負けても傷を負わずに負けを糧として次に成長するために試合をする。武道の負けは死ではない。でも、武術の負けは死に直結する。だからこそどんなに卑怯なことをやっても生き残る。そのための手段は選ばない。
生き残ることこそが美徳だった時代がある。切腹とはそれを超えた恥を清算するために行う。生きることは決して恥ではなく美徳だった。だからこそ生き残るために使う技が卑怯であればあるほど、褒め称えられたのが武術の隠された真実でもある。
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