その2 武術における真剣勝負と実戦。(後半)
「どうかお許しください」と謝るところから、すでに勝負は始まっている。そうやって近くまで安全に相手との間合いを詰める。両手を合わせ謝りつつ、低く頭を垂れながら間合いを詰めていく。頭を垂れて低い姿勢を取ると下半身にバネが生まれる。そのまま間合いがあった瞬間を逃さずに、謝る際に相手の喉を重ねた両手の指先で突く。この攻撃でできるだけ相手を油断させ、嫌がらせ、のけぞるような姿勢にできればなお良い。
一瞬の隙をついて両手を重ねた指先で相手の喉を突く。しゃがんだ状態から全身が伸びる力を加え一突きする。これを“合掌打ち”と呼ぶ。合掌打ちは正式な技でもある。正式な技であるのだから何も特殊な技ではない。武術では当たり前の攻撃なのだ。
さらに合掌打ちは様々に変化する。相手に許しを請う構えからの時は両手を重ねるし、時には左右を別々に相手に絡めるようにして急所を突く場合もある。現代では突拍子もないような技、卑怯極まりない技は、古流武術では当たり前の技であり、基本でもあるのだ。
コンビネーションで相手を騙すのではない。本当に考えられる全てを使って相手を騙す。その知恵と工夫は数百年単位で積み重ねられているものだ。だから現代からすると騙した相手が馬鹿にされそうなこの勝負だが、勝ったほうが賞賛されるのだ。よくぞ、宮本武蔵を相手にそこまで工夫を重ね実行し、成功を収めたと賞賛される。敗れた宮本武蔵は、武蔵ともあろう者があのような油断をしてと……残念な最後になるらしい。
ここには書けないような卑怯極まりない技こそが古流武術の真髄。そこで僕はこう思う。今の時代にこんな勝負を見たい人っているのかな、って。あの格闘技とこの格闘技が闘ったらいったいどっちが強いんだろう? そういったロマンや幻想が20世紀の格闘技界では流行った。そしてUFCが出現して幻想は崩れた。そんな崩れた幻想の中、更に激しい試合、ルールに目突きや金的を入れたらどうなるのだろうか?
古流の武術では目突きや金的は殺し技ではない。殺しに至る準備のための技として使用する。初心者はそれができないから肥溜めに落ちて、相手を困惑させることをして謝りながら殺す。武術を修めれば目突きや金的は騙すために使う。よっぽどの成功をしない限り、目突きや金的を使い一撃で絶命させることはできない。人間はそれほど簡単には死なないのだ。
戦場では棒で後ろから思いっきり殴っても死なない相手もいたと聞く。倒れたら死ぬのだから、戦になればそう簡単に人は倒れないのだ。殴られて命の危険を本当に感じた相手は最後の死力を振り絞って向かってくる。そういった相手にはかえって非常に苦戦したのだとも聞いている。
目を潰せず、しかも片目は自由だったとしたら相手の怒りは尋常じゃない。その相手が全力で向かってきたら怖いんだろうな? 人は威力では殺せない。それこそが古流の武術の口伝。戦を現実に行い、さらに何百年も工夫を重ねて来た知恵は現代の想像を遥かに超えているのだ。
現代でも交通事故にあっても亡くならない人もいる。最初から車がぶつかって来る覚悟で道を歩けばさらに生き残る人数は増えるだろう。車が思いっきりぶつかって吹っ飛んでも亡くならない人はいる。それなのに軽く車がぶつかって顔にも身体にも傷1つないのに亡くなってしまう人もいたりする。この状態というのは実は武術の極意でもあるのだ。
この状態に近くするコツが肥溜めに落ちるに相当する術なのだ。武術を極めれば使えるようになる人殺しの技。だけど現代でこれを見たい人も使いたい人もいないような気がする。